川端康成は、東京裁判を傍聴し、次のような手記を残している。
戦争の起因は日本の歴史にも日本の地理にもあつて、今日の日本人のせゐばかりではない。勿論東京裁判のわづか二十五人のなし得たことではない。これらの人達は政治と戦争とをなしつつあつた時、自分の大きい力を信じてゐたかもしれないが、今被告席に並んでゐるところを見ると、私は悲惨な道化芝居の終幕を見るやうな気がしないでもなかつた。「奇しき運命の手に依つて処刑される回り合せになつた」のは、学生木村君〔引用者註――BC級戦犯として処刑された学生兵士であった木村久夫〕と大して距たりがないやうに思へた。木村君も私達もこの悲喜劇に登場する端役なのである。しかし無論東条氏〔引用者註――東条英機〕と木村君とは大きな距たりがある。この距たりの大きさも東条氏等の罪の大きさの一つであらう。木村君のやうな例は「数限りなくある。」(川端康成「東京裁判の日」)
他方で、丸山真男の「軍国支配者の精神形態」(1964年)に注目してみよう。丸山は、この表題で、東京裁判におけるA級戦犯の所作を批判しつつ、ある種の日本人論を展開してみせる。日本の「支配層一般が今度の戦争において主体的責任意識が稀薄だということ」。それは、ナチス・ドイツに対するニュルンベルク裁判での指導者の弁論と比較しても、日本の「A級戦犯」の近代的主体としての「後進性」を示しているという。丸山は、そこから、日本人に特有の「無責任の体系」を導き出している。
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わたしは、丸山のこうした「無責任」論よりも、川端の述懐の方が好きである。川端の文学をそれほど愛好していないわたしでも――わたしは同じ系列の作家でいえば横光利一の方が好みである――、さすがは戦前から活躍した文学者だけのことはある、という感想を抱かせる。社会学者丸山が、A級戦犯に日本人全般の無責任さを《代表》させ、そうすることで責任の概念を日本人全般に拡散させ、かえって希薄化させているときに、川端は、むしろ責任を取るべき主体とそうでない主体とを明確に区別し、なお、その区別の曖昧さに驚き、かつその曖昧さがもっている機微を読みとろうとしている。あるいは、丸山が戦前の愛国教育の外部から軍国主義者をみているのだとすれば、川端は、自分をBC級戦犯に重ね合わせている。BC級戦犯は、責任をとるべき主体――A級戦犯と、そうでない無辜であるべき市民とのあいだにあって、両者を分かつと同時に曖昧にしている境界線上の人間なのであり、重要なのは、この境界線がもっている複雑なモザイクの方である。たしかに丸山の議論はわかりやすい――だが、それは、その代償として、責任概念を単純化し、かえって現実を矮小化している。問題は、責任をとるべきひとと、そうでないひとがいるということなのであって、先の戦争にかんしても、けっして日本人全体が負うべき責任ではない、ということだ。ポジションが違えば、《無責任》で結構なのである。
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戦後、皇族出身の総理大臣が「一億総懺悔」という言葉を吹聴している。それはさておき、責任responsibilityを応答責任という形で日本人全般に拡散させようとするデリダ主義者たちの議論もまた、現代の丸山学派というにふさわしい。しかし、問題は、A級戦犯とBC級戦犯のあいだの、そしてBC級戦犯と無辜であるべき市民との、重大な差異である。川端がそこにみた懸隔、それは、誤解を恐れずに比較すれば、戦争に関わった幾世代か前の日本人と、今日の若いひとたちの懸隔でもある。各所のアンケートをみれば瞭然だが、日本の子供たちは、アジア・太平洋戦争についての、今日の中国や韓国の態度に、反発を感じている。もちろん、それは当然の反発である。中学生や高校生に、その責任がないのは明らかだからである。その点、責任概念を日本人の責任としてしか考えられないひとたちは、結果として、そうした無罪の若者にまで、かつての戦争の責任を負わせようとする隠れたナショナリストでさえある。このような単純化された議論をしているかぎり、若者が、日本人の責任を放棄をうたう右翼の議論に食指を動かすのはもっともであろう。あるいは、それこそ「貝」のように、日本の内部に《引きこもる》ぐらいしか手はない。
一億総懺悔か、それとも、責任の放棄か。こうした極端な二者択一、それも結果的にどちらも責任を手放すことにしかならない馬鹿げた二者択一から、わたしたちは逃れなければならない。主体ということを、日本人の主体という形でしか考えられない右翼や左翼と縁を切ろうと思えば、そしてなおかつ責任という言葉の意味を十全に果そうと思えば、わたしたちにとることのできる道は、かぎられている。それは、日本人という形以外の主体のあり方を探る以外にはないのである。子供たちが、要するに日本人という主体を相対化し、それ以外の強固な主体――《自我》を身に付けることのできるように導くこと――要するに、国家と離れた自己のあり方を模索させる以外にないのである。だからわたしは子供たちにこう言うだろう――「あなたたちに責任はない」。そしてつづけてこう言うだろう――わたしに従うな、と。ニーチェの言った「偉大なる無責任」、百年以上前のこのニーチェの言葉は、今でも至言である。あらゆる意味において、《わたしは、あなたたちの責任など、取りはしない》のだ。