遠隔力(磁力や重力など、離れているもの同士で働く力)を斥け、衝突によって力学を考えようとしたデカルトの議論は、今日ではマイナー科学に属し、万有引力を認めたニュートン以後の世界では、デカルトの衝突論は異端中の異端である。とはいえ、《文学》の世界において機能してきたのは、じつは、われわれの想定するのとは逆に、この「衝突論」である。言葉は、真空中を進むのではない。というかむしろ、世界はつねに-すでに言葉で満ち溢れている。もっと正確にいえば、充実した真空こそ、言葉の本当に生きている世界であり、物質性をもった言葉こそ、文学者が生きているマイナー科学の空間である。
ひととひと、離れているものたちをつなぐ言葉は、重力や磁力のような、遠隔力である。誰もがそう考える。今日の言語=虚構論とは、最終的にそれを否定するにせよ、肯定するにせよ、いわば言葉を遠隔力として捉えるメジャー科学にもとづいている。言語の虚構性を肯定するロマン派以外、たとえば批評家は、たいていはこれを現実の社会と対立させて最終的には否定する立場をとるが、言葉を遠隔力として捉えているという点では、ロマン派と批評家はじつは大差ない。批評家は、言葉が遠隔力であることを否定しているのではない。言葉は遠隔力であるから(批評家の用語でいえば、これを「比喩」という)、信用ならない、すなわち言葉は虚構だと言っているだけなのである。
こうした虚構論が作り出すのが、「情報」と呼ばれる概念である。実体と切り離された虚構としての言葉の世界が、ひとからひとへと伝わるということ、このことを論じようとすれば、どうしても、具体性を欠いた抽象性の権化としてのなんらかの概念を想定せざるをえない。それが「情報information」である。今日、目を覆わぬかぎり、ひとが目にしているのは、すべて、このきわめつきのカント主義的な概念である「情報information」だと考えられるようになった。だが、それは、わたしにとっては、まことに悲惨な事態だというほかない。わたしからすれば、それを情報だと考えることが、情報のはじまりなのである。
文学者は、この「情報」の概念を、根本的に拒絶する。ホメロスは「噂(オッサ)」をゼウスの言葉だといい、最高級の賛辞を与えているが、ホメロスが示唆しているのは、われわれが実体を欠いたものだと考えている「噂」の物質性である。ホメロスにおいて、あの物質性をまとう異形の神々は、にもかかわらず、つねに《言葉》としてあらわれる。そして彼は、「噂」にこそ、ゼウスの称号を与えているのである。このことは、最高度の伝達力をもった「噂」が、物質性を帯びていることを意味している。
わたしは、いつしか、言葉=虚構論とは、完全に手を切ることになった。言葉は、どこまでいっても、デカルト的近接力の範疇に属し、彼の衝突論こそ、言葉が本当に機能している世界だと考えるようになった。歴史を考える際に、どうしても、言葉=虚構論は、理論的に役に立たなかったのだ。言葉を特殊な近接力の一種として考えないと、ひとびとの生をうまく説明することができないように思えたのだ(といっても、歴史学者は、基本的に言葉を遠隔力だと考えている)。
とはいえ、すくなくとも戦前にはまだ力を持っていた言語のデカルト的衝突論は、いまではあるかなきか、ほとんど見かけることがなくなってしまった。この分の悪いマイナー科学の側から、わたしは世界を見つめていくことに決めた。わたしは、「情報」の概念を、根本的に拒絶する。