ただ、彼らの横を通り過ぎた

criticism
2008.12.20

言葉がみちて、やがてあふれて現実を穿つとき、わたしたちは、それを《出来事》と呼ぶことがある。それは真理の名に値する唯一のものであり、そして同時に名状しがたい美しさをもっている。

だが、こうした「思考」を否定する背面世界論者や皮肉屋たちの群れがある。夕暮れ時の色をした言葉の指差しているのは、出来事というよりは、「意味」である。いつも振り返る者たち、すなわち歴史家が若くして老いたその指に触れるのは、《出来事》ではなく、「歴史」である。つまり、《出来事》にたどり着くには「意味」や「歴史」はあまりに非情なのだ。

ここでわたしたちは、二人の人間に出会う。ひとりは、出来事にたどり着けないことに目をつぶって実証主義者として振舞う裏返しの背面世界論者。そしてもうひとりは、出来事を諦めること、たとえばテクストの内側にとどまること、それ自体を、最大限に可能な真理ならざる真理として受け容れる、脱構築主義者である。

彼らは、多かれ少なかれ、歴史家である。出来事を目ざして進むひとたちが、出会う最初の障壁が、「意味」であり、そして最後のそれが「歴史」である。出来事はつねに彼岸にあり、わたしたちはそこにたどり着くことができない。だが、わたしはそうした思考とは無縁の人間である。

こうした歴史学的な思考、要するに非―思考には、もう飽き飽きしている。良くも悪くも混濁しているジャック・デリダには、まだ可能性がある。だが、やはり良くも悪くもデリダほど混濁していない柄谷行人には、もはや可能性はあまりない。いずれにしても、彼らはよく似ているし、わたしは、彼らとは無縁でいたい。要するに、わたしの哲学は、カントとは無関係でありたい。音声中心主義批判が取り出す差延は、カントの超越論的主観とほぼ正確に同じものである。それらは、可能性であると同時に不可能性だが、こうした両義性を、彼らは保持し続ける。両義性、それは、過去を解釈し、未来を予言しようとする現在の人間には必要不可欠なものだ。こうした言説は見かけ上つねに正しいが、なにも生産しない。なにも判断せずに懐疑にとどまっているうちは、本当は正しいも間違っているもない。ニーチェ風にいえば、現在の人間のために語る彼らは、いまだ竜ではない。わたしは、わたしの竜を探している。

ともあれ、わたしは引き返しはしなかった。ただ、彼らの横を通り過ぎた。

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