もうひとつの世界

criticism
2008.04.16

昔、ある人がこう言っていた。「わたしたちが見ている世界は、いつも世界の半分だ。」それは、正しいと思う。わたしが見ている世界も、きっと、世界の半分だからだ。世界には、つねに、もうひとつの世界、すなわち、反世界がある。わたしたちは、二つの世界を、同時に見ることはできない。裏に回って、彼女の後姿をみようとしても、今度は、彼女の顔が見えなくなる。月の裏側が見たいと思って、裏側に行ったら、今度は、表が見えなくなった。というか、裏が表になった。なんてこった!

しかし、もちろん、だからといって、絶望する必要はまったくない。今度は、彼女の顔を見るために、前に回ればいいのだ。後姿を見たくなったら、また後ろに回ればいい。《もうひとつの世界》は、不可知の世界では、けっしてない。画家たちが、いつも、もうひとつの世界の真実を描こうとしたように、わたしたちは、いつも、もうひとつの世界を想起しなければならない。

記憶していた時には忘れていたもうひとつの世界が、忘れた時に、ふたたび甦る。こんなことは、よくあることだ。忘れなければ、思い出すことなどできないのだから。もうひとつの世界は、思いがけず、わたしたちの目の前にあったりする。不可知ではないし、それは、虚構の世界でもない。立派な現実である。小説家もまた、もうひとつの世界を描く。だが、それは虚構ではなく、真理なのだ。あるいは、こういってもいい。それが虚構なのだとすれば、真理もまた、虚構なのだ。真の歴史家は、こういったものだ。「わたしは、虚構しか書かなかった!」 それと同じように、昔の小説家は、こう言ったものだ。「わたしは真実しか書かなかった!」 画家や小説家、そして歴史家とは、月の裏側を描こうとするひとたちのことだ。月の内面なんか、どうでもいい。

東洋のひとたちは、木を描くとき、葉と葉のあいだの空間、枝と枝とのあいだの空虚も、木の一部だと考えた。というか、それこそが、木なのだと考えた。そんな東洋人の思考に、見えないものを見ようとしているといって、西洋人は驚嘆した。西洋人が表象だと思っていたもの、それは、精神の一部かもしれないのだ。だが、東洋のひとたちは、身体を、すべて《気》の器や通路だと考えていた。だから、臓といったり、腑といったり、経絡といったりした。重要なのは、臓腑や経絡ではなく、そのあいだの空虚であり、そこを通る《気》だったからだ。だが、西洋のひとびとは、身体を切り開き、すべては《肉》なのだと言った。それを聞いて、東洋人は驚嘆した。《理》や《気》にばかり気を取られて、《肉》のことなど、考えもしなかったからだ。重要なのは、見えないものを見えないままに解釈するのではなく、見えるようにすることなのだ、ということを知った。精神でさえ、表象の一部かもしれないのだ。

それは、もちろん、おたがいに、おたがいを、誤解しているだけかもしれない。しかし、重要なのは、誤解や正解ではなくて、一方が見ていないものを、他方は見ていたということだ。あるひとにとって、《使用価値》を失い、《交換価値》だけになった商品が、他人にとっては、紛れもない《使用価値》であるように。

使用価値と交換価値とによって、商品が成立していたように、かつて世界は、東洋と西洋とによって、成立していたものだ。オリエンタリズムも、オクシデンタリズム(1)も、虚構にすぎないが、だとしたら、世界はすべて虚構なのだ。死が生をふたたび生き生きとさせるように、東洋と西洋は、おたがいによって、いつも活力を得ていたのだ。いまは、もう、世界はもっと複雑に入り組んでしまったが、それでも、問題は同じだ。ふたつの世界があるということ。両方を同時に見ることはできないが、しかし、けっして不可知ではない。わたしたちは、恋人とひとつになるのではなく、ずっと二人でいたいのだ。

城壁の向こうに矢を放つ遊牧民は、しかし、自分もまた、その同じ矢なのではないかと、いぶかしんでいる。わたしもまた、不思議に、わたしの言葉が、城壁の向こうに飛んでいくのを感じる。わたしの言葉は、そんな矢と同じなのだ。遊牧民は、国家の災厄のときにだけ、やってくる、不気味な存在だが、もうひとつの世界という不穏な思考は、きっと、そんな国家の災厄と同じものにちがいない。

わたしたちは、分かり合うことなどないし、通じ合うこともない。ただ、言葉を別の言葉で返し、言葉を連綿と紡いでいくことだけができる。もちろん、絶望する必要はないし、世界を否定する必要もない。子供は、親とは反対のことを言いたがるものだ。素直すぎたら、ちょっと疑った方がいいくらいだ。子供のほうが、言葉の秘密を、よく知っている。だが、よくない親は、反対と否定を混同してしまうものだ。子供は、反対しているだけで、けっして否定しているわけではないのに。親はいう。「そんな否定など、よしてちょうだい。」だが、子供は、親に反対することで、肯定しているのだ。子供が親に反対しなくなったら、そこで進化は止まってしまう。

生命が遺伝子によってできていることを知ったとき、本当の文学者ならば、膝を叩いて喜んだことだろう。それみたことか! 世界は言葉でできていたのだ! 生命が、時間をかけて行なってきた言葉のやりとりを、人間は、短時間で行なう術を身に付けた。人間は、ずっと半信半疑で、言葉を用いてきたのだが、しかし、実際、わたしたちの文明は、言葉によって、可能になったのだ。わたしたちの文明は、言葉が、無力なリプレゼンテーションなどではなく、《力》であることを、よく証明してくれている。

ひとは、わたしの言葉を、意味として受けとるだろう。だが、わたしは、あなたの言葉を、意味として受けとるのだ。もちろん、わたしの言葉は、あなたのなかで、意味として――つまり、別の言葉として、生成するだろう。わたしは、そのことを、涙や高笑いなどなしに、静かに受け容れる。言葉もまた、世界と同じ元素でできているということ、そのことが、嬉しいからだ。

【註】

  • (1) 愛すべきエドワード・サイードは、オクシデンタリズムには、ほとんど言葉を割かなかった。彼は、オクシデンタリズムの虚構性についても一言すべきであったし、そのことでは、フーコーや世界はすこし残念に思ったかもしれない。それに付け加えておけば、かつて小林秀雄は、日本の文学が、西洋の文学の輸入によって始まっていたことを強調していたが、その強調を、正確に受けとったひとは――嘆かわしいことだが――、ただのひとりもいない。正しき欧化を目指す近代主義者にせよ、純粋な日本化を目指す日本主義者にせよ、小林の指摘した点に関して、日本の限界としてしか理解しなかった。

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