アンチ・サイード

criticism
2011.08.08

わたしは、積み重ねてきた善行の見返りを生きているうちに貰いたい、と考えている人間である。だが同時に、わたしに振舞われた同時代の人間からの不当に対するお返しは、次の世代と次の次の世代の若者が支払ってくれるといったゲーテの考えに、完全に賛同している。

歴史の業界に長くいればいるほど、歴史病を患い、人間のことを考えている学者は稀になってくる。彼らは紙に書かれた法や制度について論じながら、それを実態と呼ぶことをはばからない。しかも驚くべきことだが、実験によってたしかめるなど誰にも不可能な歴史において、その種の傲慢がかえって慎み深さと取り違えられることさえある。

歴史の論文のなかに人間が存在していることは稀であって、実際には、自然科学にもまして人間の存在していないことが、往々にしてある。結局のところ、自然科学が駄目になったからといって、ひるがえって人文科学をとりあげようと考える向きもあるかもしれぬが、そこでも人間のことはほとんど語られていない。

たった数年、歴史の業界にいただけの若者が、もう歴史病を患っているのをみると、心底、絶望的な気分になってくる。そこに人間はいるのかと問いかければ、こちらが傲慢だと言われかねない状況である。だから多くの場合、わたしは若者の書いた論文など怖くて読む気にならない。

現在の人間に、原発の運転再開など望むべくもないが、そのうち飛行機も車も操縦できなくなり、新幹線でも事故が多発し、遺伝子の業界でまたぞろ同じようなことが起こって生命が破壊されるのを見ることになりそうな雰囲気である。

犬のディオゲネスが言ったことは本当だった。「人間どもよ、人間がいない」。

エドワード・サイードという男に、世間で論じられるほどの冴えがないのは明らかだが、彼のこだわるアマチュアかプロかなど、たいした問題ではない。人間について極めることなく素人のまま知識人になれるなど、勘違いもはなはだしい。

この男はこんな馬鹿げたことを言っている。「現代の知識人は、アマチュアたるべきである。…いったい知識人はいかにして権威に語りかけるのか。知識人は権威筋に、専門家としてにじりよるのか、それとも、報酬を得ることのない、アマチュア的良心として接するのか」。

気持ちはわからないではないが、素人のほうが人間を語ることができるという根拠はいったいどこにあるのか。民衆的な共感に訴えているにすぎない。素人が人間を論じられる、というのはほんとうだろうか? むしろそんなことはあってはならないことだ。ただの素人にこそ人間が論じられるという逆説をぶっているのだが、しかもそれで気の利いたことをいった気になっているのだろうが、もしそんなことがあるなら、そもそも世の悲劇など起こるわけがない。大学に職を得ながら、世の若者に無報酬のアマチュアリズムを強いつつ、知識人たることを要求するなど、社会を変革するつもりがないと思われても仕方がない。

なんの後ろ暗いところもないなら社会から喜んで報酬をもらうべきだろうし、報酬を貰わねば生きていけない貧しい人間には、もはや知識人となることなど不可能になってしまう。そんなことだから、人間について終生アマチュアを気取る知識人が、大学教授という副業にいそしまねばならぬ羽目になる。

人間について真摯に思考する者が、最低限の報酬を貰うことさえ許されないような社会は、けっしてよい社会とはいえない。そしてそれが許されないために、どれほどの若者が人間についての思考をあきらめねばならなくなったか、考えたことがあるか。

その道を極め、それについての正当な報酬を得る職人でありながら、なお知識人たることが、もっとも重要なことであって、アマチュアであることを知識人と結び付けるなど、古い知識人の自己満足にすぎない。

あらゆる分野において極端な複雑化の生じた現代という時代にあって、専門家にしか論じられない数多くの危機があるのはあきらかである。その専門家が知識人たることができないとすれば、危機のたびに知識人の機能不全を目の当たりにすることになろう。専門家と知識人とを分離するかぎり、そういうことにしかならない。

むしろ、ある特定の分野で社会からの報酬を得ている専門家こそ、まっさきにその社会における知識人たらねばならない。つまり人間について考えていなければならない。そうすることでしか、真に具体的な責任など取りようがない。アマチュアに責任など取りようがないのだから、責任概念を形而上学化するほかなくなる。かくして、アマチュアであることにひとは逃げ込むのだ。

異論は多いだろう。実際、彼に特別文句があるわけではないのだ。というより、あまり気にしたことがない。とまれ、いまやアンタッチャブルになった彼の研究は、若い学生を惑わせていることも多い。西洋と東洋の融合を夢見る若者の感情はけっして誤りではないにもかかわらず。

たしかに、サイードのオリエンタリズム論は、東洋と西洋のあいだで交錯する視線に厚みをもたらすということはできる。だが彼の議論が、東洋人・西洋人がお互いから学ぼうとするのを妨げることがあってはならない。たとえばニーチェたち19世紀の文学者の東洋趣味をオリエンタリズムと非難するのは東洋人の偏狭でしかない。

おそらくは西洋人にとっての東洋がそうだったように、われわれ東洋人にとって、西洋はワンダーランドである。たえず革命と近代の理想を西洋に夢見る。本当の西洋がそのような姿をしていなかったとしても、それでも役目は果たしているのだ。同様に、西洋が東洋を理想化して論じたからといって、そんな東洋はどこにもないといって非難する必要もない。

唐招提寺

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