エゴイストの困難

criticism
2013.06.17

この社会で、エゴイストであることの困難。エゴイストをみれば、世間一般のひとびとは、なにか悍ましいものを見たような気分になり、忌み嫌って人でなしのように感じたりする。実際、エゴイストは、この社会、とりわけ日本社会において、文字通り人でなしであった。

テレビに映る、国家のために立ち上がった政治家の顔が異様なエゴイストにみえ、また社会のために声を上げる民衆もまた、エゴイストにみえる。というのも、彼らはいずれも《他者のために》行動しているからである。他者のために、彼らはますます隠れたエゴイストになる。

他者のためにひとが行動するとき、自分を律する制限はなにもなくなる。というのも、自分の行動の原因を、すべて他者に預けているからである。このような不自由なエゴイストたちに、いたるところで出会うことができる。真に自由なエゴイストは、なかなかいない。

自分の才能を十全に発揮する前に、他人に気を遣って才能を削る若者がいたるところにいる。そんなやさしき若者のために、教師は自分の才能を信じること、才能を発揮することが他人を傷つけるかもしれぬという愚かな考えをやめさせることからはじめなければならない。要するに徹底してエゴイストたれと。

国家への義務ばかり強調したがる政治家の言い分はこうだ。…われわれはこれほど国民のために尽くしている。だからせめて、その何分の一かでも、国家に忠誠を尽くす国民がいてよいではないか、と。右翼とは、かように不自由な利他主義者にして利己主義者なのである。

それに対する国民の言い分はこうだ。国家主義者どもは権力を盾に、義務と称して弱者を国家に従属させる。そんな弱者のためにこそ、国民は義務に反対するのだ。かくて国民は弱者たるためにますます堕落し、ずぶの素人であろうとする。国民とは、かように不自由な利他主義者にして利己主義者なのである。

現代には、こうした胡散臭い道徳に満ちた歴史学が存在し、またこの固定観念にふさわしい歴史も実際に存在しているが、かかるルター的教説から離れた非道徳的な歴史も、別の形で存在している。すなわち、利己主義的な歴史である。別の形というのは、これに対応する歴史学がまだないからである。

かかる歴史とは、すなわち、農民であろうと貴族であろうと、市民であろうと資本家であろうと、乞食であろうと聖職者であろうと、神であろうと魔女であろうと、誰もが自分の才能を、自分自身のために発揮しようとし、その結果として今日の社会があるという、至極あたりまえの歴史である。

わたしが教師であると同時に研究者として、おのれの人生を捧げるとすれば、可能な限りいかなる共同体的思考にも頼らず、あらゆる存在自身の才能の発露の歴史を描くことであるはずである。そうすることが若者に勇気を与え、そして同時に「私」の才能を完璧に発揮することにつながるのである。

窓の外で鶯が歌う。一羽ではない。複数いる。群れなして歌う鶯の森に飛び込んだことがあるが、不思議なことに、一度として歌声が重なることはなかった。それぞれが自分の領分をわきまえ、かならず歌と歌のあいだに沈黙がある。彼らは人間以上に、おのれの才能を発揮する術を知っているのである。

そも森がそうである。同じ空間を複数の樹木が占有することはない。人間は小鳥ほどの知恵ももたず、諍いを繰り返しては法をこしらえて自らを縛り付けなくてはならない。「私」というエゴは、才能の出発点というよりは、時間の流れのなかで、浮かんで消える小鳥の歌のようなものでなければならない。

ところで若者はエゴイストだろうか。否、ふつう、彼らはエゴイストではない。他人のために、あるいは自分より大きな理想のために、やさしい感情を向けるか、熱く燃え盛っている。ちっぽけな己よりも恋人や貧者たちのために、社会や国家のために、人類や世界のために。若者とはそんな時代の人間である。

大人からは、理念に殉じ、恋人に身を捧げる若者はまったきエゴイストにみえる。だがそうではない。高次のものに、あるいは恋人に、おのれを捧げているからこそのロマンティシズムである。大人が大人たるとすれば、たんに理念や恋愛に身を捧げるより、隣人に気を遣う方が楽だと気づいたからにすぎない。

しかし今日の若者は、人類史的な理念にも恋愛にも無関心である。彼らもまたエゴイストであろうか。否、大人と同じ、一番最小の非自己である他者だけが関心事である。他者という最後の関心を失い、無関心を突き抜けてフーコーのいう「自己への配慮」に向かったとき、真のエゴイストが誕生する。

つまり今日の若者は、真の意味で思考するために、あらゆる古い観念とおさらばしようとしているのだろう。自己に至る寸前、ただ一滴の水滴がそこに加われば、大洋があふれかえるというような、そんな場所を目指して、彼らはおのれを見つめようとしているのだろう。そんな風に思ったりもする。

他人のではない、知りたいという自分の欲望、美しいものに触れたいという自分の欲望、そうした自分の欲望をストレートに表現することを、若者は求めている。だが、彼らの目には、他人があまりにうるさく映っていて、自分の欲望がはたしてなんだったか、わからなくなっているのである。

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