エヴィデンスなしの生を讃える

criticism
2023.07.06

さて、結果には原因がある。この反省好きの人間のする遡行にもとづく必然性は、それほど正しいわけではない。両者の結びつきは、かなり曖昧なので、それについての批判は、科学であれ、人文学であれ、たえず必要だ。この批判、すなわち時代時代に通用している因果論を批判するときにこそ、哲学は立ち上がるといっていい。

どんな学問にだって、そうした哲学はなければならない。ここではあくまで〈歴史学者として〉、因果論について批判的に語っておこう。エビデンスなしに存在を認めない、という科学的思考がまっさきにその存在証明を奪うのは、歴史においては《民衆》だから。民衆は、その存在を証明できたことがほとんどない。

ぼくらは、石板に王の名が刻まれていれば、民衆の存在も前提する。だがそれは、生の斉一性にしたがったまでで、べつに現代の戸籍のように、文献でいちいち存在証明がなされたわけではもちろんない。《民衆》は、本質的に、エヴィデンス以前的なのだ。仮にそうした民衆が「誰か」の形で特定されても、名もなき民衆は、かえって名をもつことで、民衆であることをやめてしまう。

歴史学は、文献というエヴィデンスなしに語ることを嫌う。この学問が往々にして陥ってしまうのは、信頼に足る——結局は公的機関が認定する——文献にその名がなければ、たとえなんらかの伝説や風聞があったとしても、それを存在として扱わないという、《学問に対する誠実=歴史に対する傲慢》だ。こうして、存在の証明されたものだけで歴史を構成しようとするから、歴史は貧しくなっていく。

繰り返すが、民衆は原理的にエヴィデンス以前的だ。だから、エヴィデンスによって特定されれば、かえってなんらかの性格を有した「団体」を意味してしまう。このことから、歴史においてきわめて重要な存在でありながら、文献による特定によって、かえって因果論の外部に飛び出してしまう、そんな存在もまたある、ということがわかる。

だから、歴史を十分に語ろうと思うなら、エヴィデンスなしに存在を認めようとしない(通俗)科学的な因果論を超えなければならない。因果論の外部、つまり重力なき宇宙空間を行くためにこそ、哲学が、あるいは人文学が必要になる、と考えてほしい。本来の歴史も、因果論を越えていく物語だったのだ。

名もなき民衆の存在は証明されたことがない。残っているのは神々や英雄の名だけで、それで彼らは証明できても、民衆は彼ら以前に存在したということができない。無名の人間は原理的にどこまでも証明できないから、かえって人間は神々によって作られたことになる。要するに、因果論にこだわるあまり、かえって神話を温存し、起源が神々の世界に堕落してしまうわけだ。

ぼくら人間は、じつは太古の昔から、通俗科学レベルの因果論にかなり強固に囚われている。とりわけ「文献」の誕生以来、文献以前のアプリオリな生なるものを構想することができなくなっていく。つねに文献が先立ち、さもなければ系図が先立ち、なにかのおかげで生かされていることになる。今日なら、それはさしずめマスクやワクチンということになる。マスクやワクチンが、ぼくらの生のアプリオリになってしまう。

それで、マスクを外すとは、生のアプリオリを奪うことであり、それならそれを許す別のエビデンスがなければならない、と考えるようになってしまう。これは生の転倒であり、それ自体が病だ。マスクをしてくれる他人の思いやりのお陰で、ぼくらは、苦しい息をなんとかしていられる、という転倒……。

ぼくのように因果論の問題を感じ続けてきた人間からすると、今日、マスクが人間の生のアプリオリになる傾向は、非常に危ういものに見えている。まずは、ぼくらがなんのエビデンスもなしに、たんに生きて、そして存在している、そうした世界観を取り戻すことが必要だ。エビデンスなしには存在を認めない、学者の誠実は、しかし人間に対して傲慢である場合がある、ということを、たえず胸に置いて学問してほしい。とりわけ人文学者は。

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