クロノスの不在

criticism
2011.11.01

超越論哲学——キリスト教社会における、神的超越から人間的超越「論」への移行。西欧社会がもちえたカント哲学の価値を、東洋のわれわれは想像するほかない。また一方で思うことは、カント哲学は日本にあまりのもはまりすぎるのではないか、ということだ。もともと、誰しも「かのように」でやってきたのではないだろうか。

ニーチェは、カントを、檻から自力で脱出しながら自ら檻に戻った狐にたとえていた。「かのように」の哲学で天皇や将軍の支配を受け容れる「超越論」も、心底から神の支配を信じる「超越」も、内面に差はあれ、結果は同じである。「かのように」の檻のなかにいることが、いかに気楽か。檻にいるかぎり、彼はもう罪を犯すことはないのだから。

近代における人間支配の巧妙化は、法のますますの複雑化を生み、形式犯と実質犯の区別がつかなくなっている現状で、ひとはいつ、罪を犯すか知れない。ひとは自分でも知らないうちに罪を犯しているのだ。おそらくそれは、専門家でさえ知識の行き届かぬ複雑化した現代の法治国家に住むすべての人間が、心のどこかで感じている不安である。この不安を恒久的に取り除くひとつの方法がある。あらかじめ監獄のなかにいることである。

たとえば交通事故は、どれほど悲惨な結果を招こうと、ほとんどの場合、一種の形式犯である、という観点はありうる。意図的な事故という命題は、どこまでも矛盾したものでしかない。しかし昨今、これを実質犯として計上しよう、という傾向が生まれている。つまり、意図的な殺人に似たものと考えよう、というわけだ。むろん、この犯罪論は、論理的には受け入れられるものではない。しかし、自動車という、暴走せる鉄の塊がもたらす被害の甚大さについて、形式を超える人間の意志をひとびとが見出すこの傾向がやむをえないものと感じている。なぜなら、ひとは、この暴走せる鉄の塊が恐ろしい凶器であるのを、知っていて使用しているからである。

この傾向をやむをえないものと感じている自分がいる一方で、実際にその場面に加害者として直面したとき、そうした適用を不当であると感じることも、容易に想像ができる。いずれにしても、車社会がそうした微妙な選択をひとに強いるのなら、一番気楽なのは、車に乗らないことであり、免許など取らないことである。いいかえれば、あらかじめ監獄に住まうことである。

実際、人間は、そうした非-選択を好む生物、ニーチェのいい方をすれば、畜群的な生き物である。判断に失敗して死ぬくらいなら、ひとに自らの命運を委ねたほうがいい。判断に成功して独り生き抜くよりも、ひとに命運を委ねて集団的に死ぬほうが、精神的にはマシにみえるのだ。判断の責任を負って死ぬくらいなら、自分の生死さえ他人に委ねたほうがいい。

たしかに、ひとは自由になりたいと感じてきた。だが、罪や罰から逃れることが自由だというなら、みずから法にしたがって罪を犯してしまおう。一度きり、罪を犯して檻にいれば、あとは罪を犯す恐怖から逃れられるのだ。あきらかに愚かにみえるこの決断を、頭のよい人間ほど選んでしまう。思えば、自由を求めて、自ら虜囚となる、それが法治国家たることを誇らしげに語る近代の意味ではないだろうか。

ニーチェの苛立ちはここにある。《自由》を求める革命は、その目的を、どこまでも理念にすぎぬ《平等》にすり替えてしまい、結果、平等が実現するならと、ひとは絶大な国家権力を受け容れ、独裁を受け容れる。人間は、そういう歴史をずっと繰り返しているのである。

作為的な偽善を認める丸山真男にしても、カントの超越論的理念の必要を訴える柄谷行人にしても、彼らがいかに表面的にはリベラルに振る舞っていようと、結果においては近代的支配を受け容れることと変わらない。「かのように」の神を社会に認めよう、というわけだ。

だからむしろ、ことは反対なのである。本当の意味での超越、現象の世界においても理性の世界においても姦淫を犯すことができぬような、逃げ場のない世界を、一度でも本当に考え、そのことに苦しんだことがあったかどうか。どこにいても、つねにつきまとう血や家の桎梏を感じられるほどに、われわれは《超越》について思考してきたかどうか。

今日、《父》はもはや超越ではなくなった。父はたったひとりの大人というよりは友人のひとりにすぎず、大人はもはやほとんどいない。このフラットな世界で超越論について論じることは、フラットにフラットを重ねる無意味にすぎない。いまや子供たちは、実際には友人のひとりにすぎぬ父親について、「《父》であるかのように」接しているわけだ。

ある種の時間概念、すなわち父ー子、いいかえればクロノスの概念のどうにもならなさを、どれほどの知識人が感じているか。歴史に就(つ)かぬ今日の知識人の底の浅さ。この巧妙な支配なき支配。愚かな王を戴く愚かな民衆。しかしほんとうは、現代の若者たちは心のどこかで、彼こそ《先生》だといえるひとを、求めている。従うためにではない。超えるためにである。

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