昨日は、京都コンサートホールでグスタフ・レオンハルトによるチェンバロのリサイタルがあった。レオンハルトといえば、世界最高のチェンバロ奏者のひとりであり、映画『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(ストローブ&ユイレ監督)でJ・S・バッハを演じた俳優である、と付け加えれば思い出す読者も多いかと思う。年老いてなお長身痩躯の美男で、気品あふれるチェンバロを演奏する姿はきわめてフォトジェニック(あるいはシネマトグラフィカルというべきか)。わたしは、実際にチェンバロの音を聴いたことがなかったのだが、彼の指が鍵盤に触れ、音がなったときにはきわめて不思議な感じがした。そこが小ホールであったとしても、まだ大きい。それほど繊細な音だった。だが、その繊細な音色は次第に豊潤さを増していく。繊細かつ豊潤なチェンバロの音色によってクープランやフローベルガーなどバロック時代の音楽が見事に演奏される。それを聴くうちに、わたしは、バロックが現代に甦ったかのような錯覚にとらわれてしまった。
現代に甦る……というお決まりの文句をあえて使ったが、しかし、文字どおりそうとしかいいようがないという気がした。それは、ロマン主義的な復活劇として古びた音楽が現代に再生されるのとはまったく違う。そうではなく、むしろ、過剰な反復として京都コンサートホールという小劇場に甦るというべきかもしれない。そもそも、バロック時代の音楽は、今日のジャズに非常に近いように思われる。ある程度形式化されたコード進行(カデンツ)上を、即興的な演奏が繰り広げられる(これをトッカータという)。当然、ミスタッチも多くなるのだが、ストップを多用しテクニカルなトリルなど、きわめて自由かつ力強く演奏するレオンハルトをみていると、クープランやフローベルガーなどを、たとえば、チャーリー・パーカーやセロニアス・モンクなどと比較することも可能だろうと思えてくる。もちろん楽器は違うし、ブルーノートやスケールの違いなど、そのフレーズはジャズのそれとはまったく異なるのだが、そもそも、バロック時代、クープランなどの音楽家は、作曲家というよりはむしろ教会お抱えの演奏家だったのであり、彼らの真価はその即興演奏にこそあったに違いない。
プログラムは、時代を遡行するように進んでいく。クープランからフローベルガー、パッヘルベルときて、最後に大バッハのトッカータが演奏される。このようなラインナップで聴けばバッハの音楽は、まるで過剰なロックミュージックのように聞こえてくる。もちろん、チェンバロの小さな音は、(フォルテ)ピアノや、ましてやエレクトリック・ギターの音に比べればはるかに繊細であり、先の「繊細かつ豊潤」というチェンバロの評価が絶対的に覆ることはない。だが、この楽器が当時、最先端であったと想定すれば、相対的にいってバッハの音楽におけるチェンバロはもはや過激であり、きわめて破壊的である。ダブルストップで奏でられるチェンバロは、もはやディストーションギターのようにオーヴァードライヴしているといってもいいほどである。20世紀の音楽史には、ジミ・ヘンドリクスがいた。バッハが17世紀から18世紀の音楽史において果たしたような役割の半分を、彼がなしていたのは紛れもない事実である。残念ながら、彼は、バッハが担ったもう半分である「フーガの技法」を提示するまえに若くして麻薬によって命を絶ってしまうのだが(もちろん、シミ・ヘンドリクスではなく、マイルス・デイヴィスをもってくることも可能であろう)。
バッハの破壊的な、過激な側面が、バッハそのひとのようなレオンハルトの名演によって見事に甦る。これを、過剰な反復といわずして何といおう? 本当のチェンバロの音など聴いたことがなかったわたしにそこまで感じさせるほど、見事な演奏であった。確かに、わたしは現代に甦るバロック、といったが、厳密には、20世紀のある時期はまさにバロックを生き、バロックを反復したのであり、レオンハルトはそれを見事な演奏で証明してみせたのであった。
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