グレン・グールド『J・S・バッハ:ゴールドベルク変奏曲』

music
2000.09.04

演奏とは、じつは創造である。創造であるほかないのである。例えば、バッハの演奏なら、それがバッハの再現前化であるようなことは決してない。その逆に、作曲という外観上創造的に見えるものが、じつはなにかの再現前化であるようなケースは少なくない(演奏と作曲のパラドックスとでも言おうか)。演奏とは、端的に創造的ななにかである。そして、その演奏における創造的な強度とは、楽譜にはけっして書かれていない音を、演奏者が見出し、演奏するときにこそ生じるのである。それは、外観上、実際に楽譜に書かれていない音を鳴らすことではけっしてない。書かれていない音とは、いわば内なる音というべきものであって、実際の演奏がどれほど楽譜の指示に忠実であっても、その創造的な強度にはまったく関係しない。むしろ、楽譜の指示に忠実であればあるほど、その演奏の創造的強度は際立つ場合が多い。だが、グールドの場合、演奏を通じてつねに、創造的態度は貫かれているようにみえる。そこがピアニストとしてのかれの特異性であり、それゆえ、かれは演奏中、ハミング(いや、もはや歌っている!)をやめることはなかった。かれは、たとえばウェーベルンのような無調音楽を演奏するときでも、ハミングをやめはしないだろう。かれのハミングは、内なる源泉から湧き出す真にオリジナルな音の粒子なのである。かれの内では、想像を絶するたくさんの音の粒子が沸き出でており、そのなかで厳選された音が、その指に宿るのである。その指がピアノを転がるとき、あまりに過剰な音が厳選される瞬間に横溢し、それが個性的で創造的な「グールドの演奏」に結実するのである。ハミングは、不本意ながらも音を厳選しなければならないという現実に直面する自分を抑制するために不可欠なものなのである。

かれは、バッハやベートーヴェン、とくにバッハにその演奏が創造的でありうるような可能性を見出す。調性的な音楽のほうが、じつは逆に可能性に満ち満ちているのである。ここでも、先のパラドックスは生きている。無調的で、一見、自由な音楽こそが、演奏者からは自由を奪っているのである。いや、無調の音楽は作曲者からも自由を奪う。形式の創造者は、その形式に忠実であるほかなく、その形式から自由でいられないからである。

創造は、もはや限られた部分にしか残っていない。いや、創造はつねに限られた空間においてのみ顕現されるのを待っていたし、これからもその態度を変えることはないだろう。

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1956, 58年/Sony Music Entertainment/SRCR 8923
演奏:グレン・グールド
M1 ゴールドベルク変奏曲 BWV.988(1955年)、M2 平均律クラヴィーア曲集第2巻より(1957年)

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