存在は、けっして観念的なものではない。すくなくとも自分は歴史家だから、たんに観念というべきではないと考えて、存在なるものの現象形態を探す。すぐに思い至る。存在とは、ひとがときに陥る《孤独》のことであると考えることができた。
事実、存在なるものを考えるとき、ひとはたいてい、孤独に陥り、あるいは孤独を恐れている。ひとの呼びかけに対して、自身の出席を主張する。あるいは、集団のなかで感じる孤独とともに、存在感なる概念の痛ましい重みを感じるのである。このように感じる痛みのなかでは、実在と存在とを区別することに意味はなくなる。孤独な人間にとって、肉体的な重みのみを主張する実在は、なんの薬にもならない。
ひるがえって、関係の現象形態とはなんだろうか。関係は、もともとプラトニックな概念である。つまりイデア的であって、近代的にいえば、現象とはかかわらない観念それ自体である。しかし、わたしは物体と物体のあいだ、非接触の空間に重力の充満を信じるニュートンの徒ではなく、たんに感覚器官にかからない物体、エーテルの充満を信じるデカルトの徒である。だから関係なるものを信じないのではない。反対に、関係なるものにも現象形態を探ろうとする。
そうすると、われわれは《感染》なる現象を考えることができる。それが言葉によるのか、細菌やウイルスによるのかの区別はできるとしても、すくなくとも関係には、細菌やウイルス程度の実在の重みを想定してよいと、考えるのである。
それによる利点は、同時に言葉にも物体的な重みを感じることができる点である。言葉は感染する。細菌のように、ウイルスのように。
したがって疫病は、きわめて社会的なものである。国家は、こうした疫病に抵抗することができる。関係を切断する、という形で。だから、たんに関係を切断することで、国家を批判できるわけでもない。社会と国家のつながりは、きわめて複雑なものだ。
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人類史第3回をアップしている。興味があれば、ぜひ。
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