壁に描かれた空を見つめる猫のことを、誰かが呟いていた。われわれは愛しい子供を見るような目線でもって、これを笑う。だが、これが猫の誤解ではなく、能力であると感じられる人はいるだろうか。
われわれ人間とて、虚構と現実の区別をつけるのは、簡単ではない。たんに、それと露骨にわかる符牒が貼り付けてある場合だけである。たとえばネットの世界に非現実を感じるのは、それがディスプレイという記号をともなっているからであって、内容をみてそう感じているわけではない。時代がちがえば、新聞とて、そも虚構の入り混じった、非現実的な読み物の世界でしかなかった。
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源氏物語蛍の巻の玉鬘が、長雨に閉じ込められ物語に耽っているのを、光源氏が笑う場面がある。虚構の世界のなにが楽しいのかと。玉鬘はいう。物語を虚構とおっしゃいますが、大陸の史書は事実なのでしょうかと。
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光源氏はすこし真面目になって、玉鬘の言葉を深いところであらためて感じ直す。君のいうことはもっともだと。この自粛社会のなかで、部屋に閉じ込められていても、壁に描かれた虚構の空を見つめていられる「あはれ」な猫の驚くべき能力に、われわれはあらためて感心していいのである。
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裏を返せば、平安時代の高貴な女性は、そうした猫のような生を送っていたのだろうか。それは愛おしく、「あはれ」であった。この自粛世界では、誰もが「あはれ」たりうる。健気に、壁の向こうにあるはずの虚構の空の蒼さを、空想することができる。
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猫のように、虚構の世界をも現実として味わう力を、つまり、大人になるにつれて失われる能力を、もっと大切にしたい。いつでも「現実」に戻ってこれるように、それとわかる符牒を貼り付けた虚構にばかり楽しむ昨今の人間の臆病は、慎まれねばならない。虚構はわれわれの大いなる力だが、それは虚構に付与された人間のさかしらな区別を取り除いた場合だけである。
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かの猫は、現代の玉鬘である。この玉鬘はおかしいが、同時にあわれである。むしろわれわれは、彼らにならって、いかにその目を回復するか。壁に描かれた空に、歴史を、非現在を想像する力を、いかに回復するか。彼らは、描かれた空の端から、鳥や虫が現れるのを期待するほどに、われわれよりもずっと広い世界を生きているのである。
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さて、例によって、都合五度目となる動画を外部サイト(YouTube)にアップした。勉強の途上にあっても、みなさんに話ができることを幸せに思う。
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