コロナは小休止といったところだろうか。コロナを機会に、権力の浸透がいたるところで生じている。ごく親しい間柄をのぞけば、端的に、水平の連帯が分断され、垂直の関係だけが許されるようになっている。これは危険なことだ。どういった抵抗が可能かを考えなければならないだろう。
ソーシャル・ディスタンスが叫ばれようと、上からの指令はいつもどおり降りてきているのだから、権力のほうは遠ざかるよりもむしろ近づいていて、かえってやりたい放題である。このコロナ禍にあっても、水平の連帯をいかに取り戻すか。それがわれわれ知識人の課題であるべきだし、教師もそのことはつねに意識しているべきだ。この事態は、とりわけ教育の現場で、起こっている。
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「教室」とは不思議な場所だ。垂直の世界と水平な世界とがほとんど戯画的に共存している。ジャーナリズムのような、発信源と受信者とのあいだのリニアかつネーションワイドな関係とはまるで異なる、無数の視線の交錯がある。
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眠そうな眼。もはや夢以外にはなにも見ていないのかもしれない。うつむいてなにかをしている。小さな画面のなかの別世界に視線を泳がせているのだろうか。教師でも黒板でもなく、窓の外で揺れる樹々を眺めている眼。別のところでは、友人同士、視線でなにかを言い合っている。あるいは、斜め前の意中の異性を見つめる孤独な視線……。表向きは講義という、一方的でトゥリー状の単純な視線の束のなかに、これらの気ままな視線が一挙に重なり合って、複雑な世界が形成されている。それらのすべてが、美しかった。
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こうした気ままな線の錯綜こそ、権力に抵抗する第一歩だと、学生たちは学ぶ。教育の忌まわしいスキル化・商品化のなかでも、教室のなかでは、まだ学生たちは生きていられたのである。
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なにかが壊れていくと感じている。わたしは、昨今の流れに抵抗する古臭い教師である。古きよき教育に戻すための努力なしの、現状追認は受け入れられないと思う。あくまで、いまの仕事は、緊急時のものだ。ソーシャル・ディスタンスなる、新たな格子状の権力を超えて、はやく学生諸君の顔がみられることを、切に願っている。
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