アンヌ=マリー・ミエヴィルによる「マリアの本」と、JLGによる「こんにちは、マリア」の二本立ての映画ではあるが、連作であり、あるいは一つの作品と言ってもよい。イエスの母マリアの処女懐胎を現代に翻訳した問題作。当然ながらその主題ゆえに物議をかもしたのだが、われわれは、『映画史』におけるカトリシズムをあくまでそのテーマにおける仮面として捉えるように、ここでもそのような仮面の所作が必要である。だが、もちろん、その仮面において熟考すべき問題は残されている。カトリシズムがもっているある重要性を無視することができないことは、80年代以降の、『パッション』、『マリア』、『訣別』、そして『映画史』へとつづく一連の作品において明らかである。
どこにでもいる女性、マリアが処女懐胎するということは、本来、女性が男性を介して初めて女性である(懐胎する)のではなく、本源的に女性であること、言い換えるなら、女性は誰もが女性としてありうる、ということを示している。前者は、いわば身体的な発想である。もちろん、彼女が女性であるためには、つまりマリアが処女のまま懐胎するためには神を必要としており、実際、マリアの子は神の子である。だが、ここでいう「神」とは、スピノザの神であり、どこにでもいる、しかしどこにもいない「他者」のことである。われわれは、通常こう思うのだ。女性が懐妊したとき、どこかの誰かがその父親であると思い込む。その誰かとは、いわば自己同一性を与えられた「男」であり、懐妊という事実を介して、相対的に与えられる男女にすぎない。この映画において、どこにでもいる女性、マリアが、処女のまま懐胎するということは、女性が男性との相対において存在しているのではなく、「神」との相対性において、しかし、「他者」としては絶対的に女性として存在しているということである。つまり、《懐妊‐身体》は、男女を媒介し、かつ同定しているのではなく、切断しているのである。カット割りは極端に短いとはいえ、ここでのJLGには、ストローブ=ユイレに通じる唯物論的な視線を感じることができるかもしれない。肉(身体)に魂(自己)が宿るのではない。魂に肉が宿るのである。
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この映画は特殊なものを除き、ほとんどパンしない。クロースアップもミエヴィルにおいて一度現われるだけであり、基本的にフィックスショットによって、しかも小津映画のような低い位置から仰ぎ見るようなフレームによって画面は捉えられている。また、フレームの外で鳴っている音が殊のほか過剰に強調されており、また黒味つなぎが効果的に配されている。
われわれは、映画を観る、ということのカトリシズム的な意義を、そしてその成功を、ここで再び確認することになるだろう。
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監督:ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィル
撮影:ジャン=ベルナール・ムヌー、ジャック・フィルマン
録音:フランソワ・ミュジ
音楽:J.S.バッハ、ドヴォルザーク、ジョン・コルトレーン
編集:アンヌ=マリー・ミエヴィル
出演:ミリアム・ルーセル(マリア)、ティエリー・ロード(ジョゼフ)、フィリップ・ラコスト(天使ガブリエル)、マノン・アンデルセン(少女)、ジュリエット・ビノシュ(ジュリエット)
1984年/フランス/カラー/スタンダード