かつてはいまの倍の長さのあったと記憶する、梅田の地下道を通り、ジャン=リュック・ゴダールの最新作、『アデュー・オ・ランガージュ』(邦題『さらば、愛の言葉よ』)を鑑賞した。
ゴダールの映画は、つねに「映画とはなにか?」という問いに満ちている。彼の興味は、つねにそこに向かう。すでに当たり前になった映画という事実に疑問符をつけて回ること、それが彼の作品群である。それは、別の言い方をすれば、映画を歴史的に思考する、ということでもあるのだが、歴史的に思考する、とは、映画存立の内在的な条件をたどることであり、それは、必然的に映画の致命的な弱点を曝け出すことになる。彼の映画がいつも、そして無慈悲にも強調するのは、そうした弱点である。
長編処女作であった『勝手にしやがれ』において、彼が発明したジャンプ・カットもそうだった。もともと映画は、ベルグソンの指摘するような、人間の「認識」の弱点にもとづいて成立している。すなわち、断続的に撮影された写真を一枚ずつ同じ場所で素早く表示すると、ひとはそれを動く映像と錯覚してしまうのである。裏を返せば、われわれの「認識」は、もともと、連続的な変容(持続)と、断続する一連の写真とを区別して捉えられない、ということである。映画はゴダール風にいえば「一秒間に24回の真実、あるいは死」ということになるが、毎秒24コマの映像は、カメラがパンして撮影した映像であろうと、厳密にいえば、すべてカットである。むろん、よく知られている裏事情をいえば、ジャンプ・カットは、無理矢理にも規定時間内に収めるために実践された無造作な省略とつぎはぎから生まれたものである。だが、直観的に、彼は映画の弱点を正確に嗅ぎ取っていたのだろう。ジャンプ・カットは、ひとが忘れかけていた映画の弱点を、観衆に惜しげもはずかしげもなく晒したのである。
最新作も、そうした映画の弱点を見事に晒す。そしてそのことが、映画をきわめて新鮮なものにする。なぜか。――なぜ、映画の弱点を晒すことが、映画を新鮮にするのか。それを理解するには、次の言葉を参照しておくのがいい。ジョン・ケージによれば、「経験」とは、「麻痺」の言い換えである……。
現代に生きるわれわれの身体は、生涯の何度かの映画体験によって、否が応にも麻痺している。つまり、上述の錯覚に泥み切っている。この作品は、そうした錯覚についての名医であって、麻痺は見事に治療される。すなわち、3D映画といっても、それはほぼ同じアングルで撮られた二台のカメラの視差を用いた錯覚にすぎないのだ、と。映画はふたたび原初の新鮮さを取り戻す。思えば、あの『勝手にしやがれ』がもたらした感動の原因は、映画未体験の原初にわれわれを連れ戻したことにあると考えられる。おそらく19世紀末のひとびとは、はじめてみる「映像」を不気味に思い、それがそう見えることのからくりを必死で探ったはずだ。そしてわれわれの「認識」の不備を認めてはじめて、映画を心の底から鑑賞できるようになったにちがいないのである。この映画がよみがえらせるのは、あのときの新鮮な感動にほかならない。かつて『勝手にしやがれ』でもたらした映画の再生と同じことを、83歳の老人が、3D映画についてもやってのけたのである。
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プロットはごくシンプルである。「3D」と呼ばれる効果を生み出す、右目と左目に映る、きわめてよく似た二つのカメラの映像と、時間を相前後しながら登場する、きわめてよく似た二組のカップル。一方は自然と呼ばれ、もう一方はメタファーと呼ばれる。そして二組のカップルのあいだを、犬が走り回る。手法もプロットも3Dであるという点だけが特筆できるような、ただそれだけの映画である。右目と左目の視差ほどにしか違いのない二組のカップルが、何度もすれ違い、行き交い、セックスし、排泄する。次第にわれわれは(というかすくなくともわたしは)、登場人物を判別できなくなり、ストーリーを追い切れなくなる。二組のカップル、二つのカメラのあいだを走り回る犬が、ストーリーを追い切れず、映画館で居心地の悪さを感じているわれわれを、ひどく安心させてくれることに気づく。ああ、犬はなんて素晴らしい動物だろう。
驚くべきは、それによって映画が破綻するのではないことである。むしろ、映画が映画として存立するために犠牲にしている人間の条件に問いかけることによって、映画は現実に露出するのだ。スクリーンに映る色彩。スピーカーの奏でる音。それらは観衆であるわたしが意味を参照しようとする寸前で見事に断ち切られ、無造作にばらまかれているが、そのけれん味のない美しさ。なんと新鮮な音と色彩とであることか。そんな驚きを禁じえないはずだ。そして出し抜けにゴダールは叫ぶ、「さらば! 言葉よ!」
そのときわれわれが出会うのは、自然と比喩の狭間で重なり合っていたカップルではなく、真の自然/世界であり、そして真の言葉/世界である。すなわち犬の喚く声と赤子の笑い声である。無数の映画の洪水がわれわれを泥ませている錯覚から飛び出したときに、言い換えればそうした映画自身の自己批判を通して、はじめて現実は現実としてわれわれの前に現れ、せめて自然/世界を掴む権利くらいは手にすることができるようになる。映画批判とは、結局、一種の人間批判でもあるのだが、そうして網膜に映り、鼓膜が聞いた自然/世界は、映画で見聞きした自然/世界とほとんど違わない。じつはとてもよく似ているのである。もしあえて違いを指摘するとしたら、かつてセザンヌやルノワールら印象派の残した美しい絵画のように、あるいはこの作品のように、自然/世界は、ただただ、われわれの感覚が心底から洗われるほどに新鮮である、それだけのことにすぎない。実際、真の自然とは、新鮮さにおいて、別のいい方をすれば、その処女地性においてのみ、現れるものだった。ゴダールが自らそういったように、彼は再び――「再び」という副詞を度外視していえば――言葉の真の意味で処女作を、別のいい方をすれば、自然を、撮ったのである。