ゴダール『イメージの本』

cinema review
2019.05.02

ゴダール最新作を観に京都へ。

いまや彼も八八歳である。思えばその処女作からこの最新作にいたるまで、彼は一貫して、映画の根源から、世界にメッセージを発してきた。イメージがもっている純粋さにひきかえ、汚れたもの、濁ったもの、混乱したもの、要するに飾り立てられた透明さについての、卑屈ではあるがひどく権力じみたものに対する嫌悪を、彼はことあるごとに表明してきた。映画が映画である、ただそれだけのことを許さない資本主義の暴力的な態度を、彼はつねに非難してきた。

彼はますます、昆虫を観察する少年のようになって、映画の歴史を縦横に指でたどる。その指が紡ぐフィルムは、これまで以上に研ぎ澄まされて、俳優の存在しない、ただ音と色彩とテクストだけの映画となって、われわれの前に提示されている。たとえば汚れとは意味であって、それは闇に似た色彩ではなかったか。たとえば濁ったもの、それは多様な色彩の錯綜ではなかったか。混乱したもの、それは権力がごく狭い範囲に限定していた秩序から離れた、色彩の健全な姿ではなかったか。つまりイメージの純粋さにおいて語るならば、汚れ、濁り、混乱、これらは依然として多様な色彩から選ばれる別の言葉がふさわしい、色彩の自然なあり方ではなかったのか。

映画を観る、という行為が、意味の、あるいはシニフィアンの物語ではなく、音と色彩とテクストの物語をたどることだと、彼は角を曲がるたびに、観客に厳しく注意する。さあ、ともに行こうと、観客の手を取りはする。だが、意味の形成される直前で、映像や音は、なんの前触れも説明もなしに、無慈悲にカットされる。意味の手前で、象徴の手前で、イメージはイメージのまま、ただわれわれの手に託される。いつもの、六〇年代と変わらぬゴダールのスタイルだ、ただ、以前よりもはるかに洗練されている……。

否、これは洗練だろうか? そうではないのかもしれない。むしろ、世界の危機に対する、笛を吹けども踊らぬ世界に対する、彼のあせりを、自分はそこはかとなく感じていたかもしれなかった。戦争体験について重い口を開く、今際の際の老人のように、彼はイメージの体験について語る。暴力と静寂、エドワード・サイードに借りて語られた表象(なにかを代表すること)についての批判的な言明は、彼が引用してきた数々の作家たちの言葉やイメージに比べれば、きわめて生硬なものだ。だが、時間はあまりなかった。この映画は、死を目前に控えた老人が必死になって若者に直裁に語った、もうそう何度も繰り返すことのできぬ言葉で綴られた、純粋を賭けたイメージの教科書だった。

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