中世以来の貴族の息子イジドールは、盛り場の歌姫パロマを見初め、無限の愛を注ぐ。病で医者から余命わずかであることを告げられたパロマは彼の愛人となり、結婚するも、彼を愛することはなく、イジドールの友人、ラウルと一夜をともにする。パロマは彼とともに出奔を試みんと、当のイジドールに金を要求するも、拒否され、彼を憎悪するようになる。やがて病が再発したパロマは死に、三年後、彼女の遺言を果たすため、イジドールはラウルとともに、その遺言書を読むのだが……。
カメラのきわめて遅いパンニング、俳優のきわめて遅い動作は、われわれを夢幻へと誘う。その遅々としたテンポは、停止=死への導入にすぎない。すべての動きは停止に従属している。作中に登場する牧師は語る、死とは永遠の命である、と。イジドールは、横たわる娼婦のすいこまれるような瞳の奥に、一瞬の夢を見た。≪今=忘却≫のわずかな隙間に明滅するほんの一瞬が閉じ込めた奇蹟のような永遠の時間を、ダニエル・シュミットは、その手管で見事にフィルムに焼き付けることに成功している。棺の蓋が除かれ、死後三年が経過してなお生前と同じ美しさ、生前と同じ表情を保つパロマの遺体が陽光に照らされるとき、不意にサンバのリズムが流れ出す! だが、それを見守る人々は、もちろん、そんな音など意に介さず非常識なまでに緩慢な動きを、それまでどおりに演じるのだ。
かりに永遠というものがあるとすれば――ダニエル・シュミットは、おそらく内心、こう語っている――それは、映画の中にだ、と。JLGの映画の中にある、一秒間に24回という、現われては消える、この超高速の真実の経験論は、ダニエル・シュミットにあっては、一枚の弛緩したタブローとなる。確かに、彼らは動いていたに違いない、だが、それを確信させてくれるのは、それぞれの観者の内にあるあやふやな記憶でしかない。なにしろ、俳優たちは、≪今≫、動いているだろうか? そのことを確信させてくれる証拠はどこにもないのである。
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監督・脚本:ダニエル・シュミット
撮影:レナート・ベルタ
音楽:ベーア・ラーベン、ゴットフリード・ヒュンスベルグ
出演:イングリット・カーフェン(ヴィオラ=パロマ)、ペーター・カーン(イジドール)、ペーター・シャテル(ラウル)、ビュル・オジェ(イジドールの母)
1974年/スイス=フランス/110分/カラー