映像には、つねに撮る側の視点が加わらざるをえないものであり、ましてやその映像を万人が観るに耐えうるかたちに編集しなければならないとすれば、ドキュメンタリー的価値が後退するとしても、必要悪として受け入れなければならない部分はあるし、あるいは、それを認めないかぎり無欠のドキュメンタリー的価値をもつ映像などないに等しいだろう。公平な視点は、ドキュメンタリー映像が内包せざるをえない最小限の作家的視点に譲歩することで、われわれ視聴者の側に期待されているものである。
1960年、アルゼンチンで潜伏していたナチスドイツSS中佐アドルフ・アイヒマンが発見、逮捕された。翌年、彼はイェルサレムで裁判にかけられ、死刑に処されるのだが、30年後、その350時間にわたる裁判の記録映像が発見され、それを2時間のドキュメンタリー映画にまとめたのが本作品である。
この裁判を傍聴したハナ・アーレントによって書かれた『イェルサレムのアイヒマン』が指摘しているように、そこには人類の究極的悪に荷担したものの驚くべき凡庸さ、「残虐行為を全部集めたよりも恐ろしい」凡庸さを、われわれも感じざるを得ない。ただ、ここでランズマンのアーレントのテーゼの批判を挙げることを忘れてはならないだろう。アイヒマンは、凡庸な役人などではなく、確信犯的ユダヤ主義者であって、裁判でのアイヒマンはあくまでカムフラージュであるという視点である。ちなみにシヴァン監督はアーレントのテーゼに従って二時間の映画にまとめあげている。発見されたヴィデオ・テープが欠損していたり、保存状態が良くなかったりしたため、また監督自らの意思も手伝ってその編集に作家的な加工が施されている点で、純粋なドキュメンタリー的価値は薄れていて、そこをわれわれは注意すべきであるのだが、アイヒマンの驚くほどの官僚的な姿かたちはあまりに目を引くし、昨今の日本の官僚的諸悪の根源を垣間見せるに十分である。悪は全体主義的官僚機構に組み込まれるや無限大に増殖し、ホロコースト、あるいはショアーを生み出すメカニズムを持ちうるのだということを認識しなければならない。二度の大戦を経験した現代に生まれた者として、この歴史的映像を観ることはほとんど義務といってよい。ぼくは、われわれ「大衆」が観るに絶えうるようにつくりあげてくれたシヴァン=ブローマン監督に賞賛を惜しまない。現実問題として350時間の記録映像を観るほどの根気と暇とチャンスを持ちあわせているひとは少ないのだから。……
[amazon asin=”B00005HPZS” /]
監督:エイアル・シヴァン、ロニー・ブローマン
編集:オードリー・モーリオン
音響:ニコラス・ベッカー、オードリー・オーモン
製作:イヴェス・スマジャ
照明:ジャン=マルク・ファブル
サウンド・デザイン:ニコラス・ベッカー
タイトル音楽:トム・ウェイツ『ロシアン・ダンス』
1999年/フランス・ドイツ・ベルギー・オーストリア・イスラエル/白黒/128分