ジャック・デリダについて走り書き

criticism
2007.05.16

最近、ジャック・デリダの文句ばかり言っている気がするが、どう読んでも納得がいかないのだから仕方がない。とはいえ、自戒しておくが、勘違いしてはいけない。彼の行なう、微に入り細を穿つテクスト読解は、それはすばらしいものだ。わたしのような若造が太刀打ちできるような代物ではないし、そもそもそんな気が起きない。デリダの議論において、きわめて厄介なのは、デリダの議論が理論的に納得できないとしても、結果においてはおおむね正しいことだ。彼はおそらく、哲学者というよりは、作家なのだ。思うに、わたしの考える前提をある程度ふまえておけば、べつにテクストといってもかまわないし、またべつにデリダの議論を活用してもかまわない。だいいち、デリダにこんなところで喧嘩を売っても、なんの意味もないし、なにしろ相手はすでに天国にいる。彼の議論を可能性において活用していく方が、生産的だし、健全だ。だが、そのためにはちょっとした工夫がいると思う。そうしなければ、おおかた、日本のデリディアンのようなことにしかならなくなる。

理論的にいって、そしてこの場を借りて何度も言っているように、デリダのテクスト論に、納得していない。《起源》にエクリチュールやテクストを見出す手法は、学問全般に対する批判にはなりうる。とりわけ学問が想定しがちな観念論――このテクスト、あるいはこの学問上の成果は、何らかの現実の、帰結あるいは分析である――を批判する際には、こうしたテクスト論は有効でありうる。とはいえ、わたしはそうは考えない。こうしたテクスト論は可能だが、理論的な可能性を十分に尽くした結論とはいえない。なぜなら、テクストそのものが、つねに‐すでにある連鎖の中にあるからである。

デリダに反して言うのだが、古いロゴスと新しい理性とは、やはりあらゆる意味で区別せねばならないと思う。それは記憶力と想像力との関係で見ればよくわかる。カント以前において、想像力は、感性にもとづく(誤った)表象を夢想させる点で、排除されるべきものであった。それを逆転させたのがカントだと言われる。カントは、《想像力》に、不在のものを現前させる新しい可能性をみてとったのである。だが、元来、それを行なっていたのは《記憶力》である。前近代において、記憶術がことのほか重視されたことを考えればよい。ところで、何度も言うように、前近代の《記憶力》は、今日の記憶力と同じではない。前近代の《記憶力》は、とりわけ想起と呼ばれ、芸術(とくに音楽や文学)にも関わる重要な能力であった。たとえば、音が何らかの音楽を実現するとき、そのことは、音と音との対位法的な《出会い》であると同時に、あるイデアの再現(想起)だったのである(楽譜‐テクストはその記録にすぎない)。つまり、イデアを再現しようとする記憶術は、近代人が芸術の分野に含めてしまうような、ある種の想像力をすでに含んでいる。したがって、前近代の想像力は、すでに想像力を含む記憶力の残滓にすぎないし、その意味では軽視され、ときに排除されて当然なのである。こうした記憶術を実現するのが、ロゴス(言葉/理性)であった。

(このような古い理性を代表し、そしてそれをもっとも精錬した哲学者として、デカルトをあげよう。こうした理性に依存する古い記憶術が前提にあってこそ、デカルトの次の言葉――《われ思う、ゆえにわれありCogito ergo sum.》が、存在論となりうる。この言葉は、近代的な視点からみれば、たんに《わたしは存在していると思っているI think I am.》という語に変換されてしまうだろう。つまり、「わたし」は「思う」という不確かな言葉もろとも消え去るのである。「われ思う(コギト)」ということが、「われあり(スム)」を保証するためには、「思う」に特別な能力が付与されていなければならない(1)。そうでなければ、フッサールのように意識の自己現前を前提する現象学を生むか、保田與重郎のようなロマン主義者を生むだけだからである。この「思う」は、先述した記憶術にもとづくものであると考えねばほとんど意味を持たない。カントは、「生来の記憶(=万人に備わったロゴス)」という概念を全否定するところから哲学を開始している。そうした哲学において、デカルトのコギトが不十分なものにみえるのはやむをえないが、それは歴史的文脈の違いを示しはしても、優劣を示すのではない。)

それが近代においてかわるのは、テクストが圧倒的な物量であらわれてからである。聖書がヴァナキュラーな言語に翻訳され、大量生産された紙に印字されてやはり大量に出版され、そしてさらに写真技術や録音技術が発達すれば、古い《記憶力》の地位が相対的に下がるのは当然である。写真はすでに、かつての記憶を完全に再現していると見なすことが可能だからである。この場合、もはや古い理性ロゴスは一新されざるをえない。過去を再現すること自体が特別な能力でありえた時代は終わる。すでに過去がテクストによって確定している以上、記憶力による再現は、確実性(客観性)を獲得するものの、他者をむしろ想像力の領域に逃がしてしまうからである。こうした記憶力と想像力のエコノミーの変化に応じて、近代においては、学問と芸術とが分割される。こうしたエコノミーがテクストに依存しているために、問題が二つ生じる。テクストが保証する客観性を中心に同心円状に弁証法的共同体が作られること。そして、テクストから正確に読解できる内容を越えた内容については、想像力の分野に押し込めるか、あるいは形而上学のレッテルを貼るしかなくなってしまうこと。前者がヘーゲルであり、後者が残念ながらデリダである(2)

たとえば、デリダは、「秘密」を次のように考える。完全に隠された秘密はそうである以上、存在しないことになる。だが、曝露されてしまえば、それは秘密ではなくなる。隠されてはいるが隠されていないもの、それが「秘密」である、と。「痕跡」も同じである。それと同定可能な「痕跡」はむしろ傷というべきであって「痕跡」ではない。そうした同定可能性から絶えず逃れ続けるようなものこそが、真の「痕跡」である、と。

このような概念は、一見正しいし、また別段間違っているというわけでもないのだが、しかし、わたしには受け容れられない。こうした概念には、彼が引きずっている《テクスト》あるいは《エクリチュール》によって引き起こされていると思われる、重大かつ微妙な問題がある。わたしは確信しているが、なんの「痕跡」も残さずに死んでいく人々はたくさんいる。彼らは、完全に隠された「秘密」というべきなのであって、だからといって、存在していないことにはけっしてならない。むしろ、デカルトが「われ思う」の中に自分の存在を抹消させるようにして、いまも《存在している》のである。ホロコーストによって、「痕跡」を残して死んだ人間だけが、死んだ人間なのではない。なんの「痕跡」も残さず、完全に「秘密」のままで、人知れず死んだ人間は、ホロコーストによって「痕跡」を残して死んだ人間よりも、もっとたくさん《いる》のだ。

歴史は勝者の歴史といわれる。誰であろうと、「痕跡」を残せた人間こそが、勝者なのだ。じつは、歴史を動かし、そうしながら自身の「痕跡」をたえず抹消しているような、そんなマイナーな存在がある。わたしたちが《想起》せねばならないのは、「痕跡」を残さずに死んだ敗者なのである。

彼らは隠れながら存在していて、だから、歴史には現れないが、にもかかわらず、《現われない》ということにおいて、存在していることを、わたしは知っている。なぜだろうか? そんなにむずかしいことではない。誰でも、想像することができるだろう。というか、想像する前に、わたしたちはすでにそういうことを経験して、覚えているのだ。呼びかければ必ずそれに答えるような、そんな応答責任を果す人間ばかりがいるわけではない。呼びかけが空虚に消え去る時、ひとは呼びかけた他人というよりは、むしろ自身の不在を痛感する。だから悲しむのだ。だが、にもかかわらず、わたしは悲しみに塗れて存在している。この手の悲しみはむしろ生涯の伴侶というべきであって、声が消え去っていくこと、それを受け容れることによって、ひとは自立する。ひとが、シュティルナーやキルケゴールのいう単独者となるのは、このときである。こういう記憶があれば、たとえ「痕跡」を残せずとも存在した死人がいることは、すぐに想像できるはずだ。デカルトの《われ思うゆえにわれあり》は、こういう消え去る存在の存在を語っている。デカルトの《コギト》をテクストとして読んだカントには、それは理解できなかったに違いない。

そして、じつは、こうした空虚に消え去る呼びかけ、という概念を、ブロックしている邪魔者がいる。それがエクリチュールである。エクリチュールは、時間に対する抵抗力が《声》に対してあまりに大きいために、ひとびとに、いつかは聞いてもらえるかもしれない、という夢想、あらゆる意味において《精神ガイスト》的な憩いの場を与えてしまうからだ。歴史をたえず生産しているエクリチュールこそが、二重三重の意味で、《不在の存在》という、きわめてありふれた概念を形而上学の領域に追いやっている張本人なのである。

さて、わたしは、デリダの《灰》の概念を好んでいる。《灰》は、それを語った彼がどう言おうと、むしろ「痕跡」とは関係がないし、テクストやエクリチュールとも関係がない。むしろ、《灰》は、不在の存在そのものなのである。テクストがあろうがなかろうが存在する《灰》、ミクロな粒子として「痕跡」を笑いながら宙を舞い、踊るようにはじけ飛ぶ《灰》。今日デリダの可能性があるとすれば、このあたりにあるのだろう。

【註】

  • (1) デカルトのコギトを証明ではないとしたスピノザは正しい。ergo(ゆえに)は「左様に」ととってもかまわない。ちなみにcogitoは「追想する」という意味もあるし、「想起する」とか「想像する」という意味もある。つまり、cogitoは、漠然と「思う」ことではなくて、何らかの《表象》を思い浮かべることである。
  • (2) こうしたエコノミーにおいては、とりわけ文学者は次第に不幸を託つことになる。というのも、彼らがたとえ真理を語ったとしても、それが《テクスト》を逸脱しているかぎり、真理からは分断された想像力の領域に囲い込まれ、さらにそれを超ようとすれば、形而上学者と呼ばれ、ひどいときには狂人とさえ呼ばれるようになるからである。といっても、それは、近代において、そして今も、たえず文学者の可能性でもあった点を強調しておかねばならない。

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