1960年代半ば、アメリカで登場した「ミニマリスム」、いわゆる最小限主義は、まず美術界から起こった。この芸術運動は、作品の匿名性、いわば作者の内的イマージュの徹底的な廃棄を目指し、また、前衛運動の最後の音楽に位置付けられる。ライヒによれば、ジョン・ケージの偶然性音楽すら匿名性という点において否定されるのだが、その点はおいておく。ライヒは音を複製するテープ音楽に注目し、 《漸時的位相変異プロセス[gradual phase shifting process]》と呼ばれる、ミニマルなパターンの反復とその漸次的な差異によって機械的に音楽を創るという手法を考案する。これにより、偶然性音楽とは正反対な作者による完全制御を可能にしながら、なおかつ単純なパターンの機械によるオートマティックな反復であることによって、ミニマリストが目指した究極的な匿名性の境地を獲得するに至るのである。……
ミニマル・ミュージックは、複数のフレーズの機械的な反復から、漸次的に生じる差異にその音楽的高揚を見出す。まさにドゥルーズの差異と反復を地でいくようなこの音楽は、ドゥルーズを読むときのBGMにこそふさわしい。また、ぼくの消極的にも聞こえかねないこの評価は、ドゥルーズの差異と反復の概念が宇宙生成の謎を解き明かすキーワードであることを想起したとき、積極的な、最大の評価へと変わるだろう。
ライヒの「Music for a Large Ensemble」を初めて聴いたときの興奮は今でも忘れがたい。本当に、大袈裟でもなんでもなく、全身総毛立ち、血液が泡立った。おまけに涙まで出そうになって、不意にわれに返った記憶がある。このアルバムを聴く前に、『アーリー・ワークス』を聴いていて、これも十分、感動したし、音楽的価値観を転倒してしまうようなまさに前衛アートであったわけだけど、この曲は、ちがう。もちろん、時期的にも後であり、《漸次的位相変異プロセス》は文字通り若干の進化を遂げているのだが、単純な進化ではすまされないような、それこそ漸次的ではない、突然変異のごとき強度を獲得していると思う。少し分析してみれば、プロセスの唯一の要素である、短い旋律自体に仕掛けが施されており、旋律と旋律との出会いが非常に調性的に、機能和声的に響くときがあり、というより、あえてそのような和声を意図的に用いており、あきらかにその態度は「作品の匿名性」からは離れていく。だが、調性的に響くその瞬間にこそ感動があるのだから、匿名性なんかにこだわる必要はない。当然ながら、前衛であることと、芸術達成度は一致するものではない。また、短い旋律の集合体が巨大な旋律を奏ではじめる瞬間というのは、言うまでもなくメランコリックな感動を呼び覚ますし、この作品はそれまでないほどのダイナミズムで成功していると思う。機能和声の援用によって生じる無数のごく短い物語が限りなく連結されていくようなイメージだろうか。宇宙に存在しうる、あらゆる音の分子が空間を埋め尽くし、飽和と拡散と運動を繰り返す。物質の記憶。ぼくの耳の浸透圧がライヒによって自在に遠隔操作されているような錯覚にとらわれる。
ドゥルーズは「物自体」を信じていなかったとは、よく言われていることである。だからこそあのような書物が書けたのだと。だが、ドゥルーズの概念を文字通り実践してみせたような、ライヒの音楽のなかには、音の粒子という、まさに「物自体」が存在しているように思えてくる。
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1980年/ECM Records/ECM 1186
作曲・編曲・製作:スティーヴ・ライヒ
(M1) Music for a Large Ensemble, (2) Violin Phase, (3)Octet ..