《節制》(ソフロシュネー)は、生の過剰を《肯定》したニーチェが批判していたように、悪しきプラトン主義の産物なのであろうか。否、けっしてそうではない。おそらく、この考えは、時代とともに、あるいは政治とともにある。過去にウェーバーやマイヤーが行なった、古代ギリシアが資本主義を経験したか否か、という論争は、再開されてしかるべきである。ソクラテスが、生が、つねに過剰に横溢するがゆえに、単に抑制すべきものと定義した、というのは、あまり正しい解釈だとは思えない。この《抑制》とは、徹底して生の過剰が《肯定》されたのちになされたある《指標》だと考えるべきではないか。そもそも、彼ら自身、不自然であると認識していた同性愛を、徹底的に《肯定》しているプラトンの『饗宴』のテクストを読んで、なお、そこに通俗プラトン主義的《節制》を読みとるのは、ほとんど無理である(もちろん、ニーチェのソクラテスに対する批判は、それがプラトン主義の批判であるかぎりにおいて、絶対的に正しい)。ソクラテスに愛を告げた美貌の青年、アルキビヤデスが、彼の外套の下で「両腕をばこの真に神霊的な、驚嘆すべき人(ソクラテス)に巻きつけたまま一夜中を過し」、なおかつ、「父または兄と一緒に寝たときのように何ごともなく目覚めた」という一文は、まさに象徴的である。ソクラテスは、自分に愛を告げたアルキビヤデスに対してやんわりとそれを拒絶しながら、こう言っている。長くなるが引用しよう。
愛するアルキビヤデス、ぼくが本当に君の主張するとおりの男だったら、そうしてもしぼくの内に君を向上させるようななにかの力でもあるのだったら、君は実際、馬鹿じゃないということになるだろう。すると、君はたぶん、君の美貌よりもはるかに優れた名状しがたき美をぼくのうちに看取しているということになるね。もし君がそういうものを看取して、ぼくとそれを共有しよう、そうして美と美を交換しようとするのなら、君はぼくから少なからず余分の利益を得ようともくろんでいるわけだ。それどころか、君は単に見せかけの美を代価として真実の美を得ようと試みる者、したがって実際、君は青銅をもって黄金に換えようとたくらんでいる者だ。でも、とにかく、優れた人よ、もっとよく考えてごらん、ぼくには何の価値もないということに君が気づかないといけないから。実際、理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ。でも、君は、そこまでには遼遠のようだけど。
ソクラテスは、経済的なメタファーを用いて、見せかけの美をもって、真実の美を手に入れようとするアルキビヤデスを批判しているのだが、それは、青銅をもって黄金に換えようとたくらむようなものであるという。また、そうして手に入れられた黄金にも実は「何の価値もない」のだという。つまり、アルキビヤデスの望む「美と美の交換」は、まったく別の価値をもつ二つの商品をまるで一般的等価物(貨幣)で量りうるかのようにみなすことであり、そればかりか、単に等価物同士の交換であるかのようにみなすことなのである(だが、実際には「価値」そのものが無い)。したがって、ソクラテスは、腕をアルキビヤデスに巻きつけられたまま、「何ごともなく」一夜を明かす、ということを選択する。この何ごともなかった一夜をもって、アルキビヤデスは、ソクラテスの《節制》を激賞するのだが、おそらく、アルキビヤデスは、その一夜の真の意味を理解していない。そこでは、何ごともなかったのではなく、何かが内在的に起こったと考えるべきなのである。そして、そのことのゆえに、ソクラテスの《節制》は、真の《指標》として称賛すべき何かになるのである。(プラトンの対話篇の巧妙なところは、ソクラテスを真に理解しない対話者の称賛を、そのままの形で載せることにあり、この無理解が最後まで継続することにある。要するに、対話者は決まって言い負かされるのだが、彼らはけっしてソクラテスを真に理解せぬままに言い負かされるのである――筆者がそうであるかもしれないように。プラトンの対話篇は、こうして、ついに閉じられることなく中断する。)
『パイドン』において、ソクラテスはこう言っている。
人々が快楽と呼んでいるものは、正反対と思われている苦痛となんと奇妙な関係にあるのだろう、まるで二つでありながら頭は一つ、というみたいにね。
ソクラテスは、エロスとタナトスが、別々の限定された概念ではなく、ある量的な差異を孕んだダイナミックな強度であり、ひとつの源泉から発せられた力のふたつの状態であることを明白に理解していた。このことは、彼が、いわば、エロスとタナトスを、ひとつの出会いとして、出来事として捉えていたことを意味する。
アルキビヤデスとともに過ごした一夜、すなわち、「美と美の交換」が起こるか起こらないか、という二者択一は、出来事の二つの側面を示している(1)。「美と美の交換」が起こるということは、まさに、あるひとつの主体と関係するかぎりでの、個人が認知しうる出来事性であり、主体の《現在》において起こるひとつの表象であるということを示している。ここでは、出会いは、いつも快楽(エロス)と苦痛(タナトス)の内側にとどまっていて、けっして両方を同時に見ることができない。一方、「美と美の交換」が起こらない出会いそれ自体が《肯定》されるとき、けっして現れることのない出来事が生じる。それは、いわば、あるひとつの主体が認知しえない出会いの残余であり、快楽と苦痛をひとつの強度にしてしまうような、《現在》からつねに逸脱する出会いの《過剰》である。猛スピードで訪れる《未来》、猛スピードで過ぎ去る《過去》、固定的に主体化された個人がけっして把握することのできない出会い、いわば、けっして、ある一者に従属することのない、単独者同士の真の他者との出会いを、ソクラテスは、「美と美の交換」されることのなかったあの一夜によって、見事に表現して見せたというわけなのである(それゆえに、ソクラテスの態度は、単に真の美を“贈与”するという、アルキビヤデスに対する最高の愛情表現であろう――アルキビヤデスにはついに理解されえなかったが)。したがって、ソクラテスの行なった《節制》は、人間の生を牢獄に閉じ込めることなどではけっしてなく、生、あるいは《過剰》の徹底的な《肯定》の果てにある、他者として、単独者として生きる人間の《指標》なのである。
【註】
- (1) この出来事の二重性を、カフカとその恋人フェリーツェ・バウアーのあいだで交わされた手紙に記された結婚、あるいは会うことの可能性と不可能性に喩えることができるだろう。結婚、あるいは会うことによって、その愛が終りを告げてしまうことに、カフカは十二分に、かつ悪魔的に自覚的である。カフカにとって、手紙は愛の交換のための媒介ではいっさいなく、手紙自体が愛であり、いわば、贈与と盗みとしてある。
もなさむ
2008年10月21日(火) at 21:49:01 [E-MAIL]お忙しいところすみません。
質問させてください。
ソクラテスはかつて「悪人は社会のバランスをとる上で必要不可欠な存在である。その真実性を吟味し、虚偽を暴くことは多くの人にとって有益なことだろうから」というようなことを言っていますか? 言っていた場合、どの書物に残されているのでしょうか。
以上、よろしくお願い致します。