ソクラテスの言葉

diary
2014.08.05

ソクラテスはいう。

一体、言葉で語られるとおりの事柄が、そのまま行為のうちに実現されるということは、可能であろうか? むしろ、実践は言論よりも真理に触れることが少ないというのが、本来のあり方ではないだろうか? 人はそう思わないかもしれない。しかし君は、これに同意するかね、しないかね?

さて、読者は同意するだろうか? 現実よりも言葉が正しい、というソクラテスに。

ソクラテスの時代はソフィストの時代である。だからソフィストたちの弁舌に騙された者たちが大勢いたはずだ。だがそれでも、ソクラテスは、言葉のほうが現実よりも真理に近いというのだ。ここには、彼の不思議な勇気があるように思われる。

若いうちは、学問(言葉)よりも現実のほうが上位にあるように思える。またほとんどの場合に、実際にそのとおりなのだが、だがにもかかわらず、もう現実にかき乱されたくないと思うようになった。できるかぎり言葉とだけ向きあって、現実は言葉のために、言葉の栄養にしたいと思うようになった。

むろん、現実に対して卑屈を強いる学問よりも、現実はただ現実である分だけましである、その意味では若いうちは現実の尊さを学ぶことも悪いばかりではない。だが悲しいかな、歳をとってから勉強するという習慣がこの国にはないから、未来の子供たちのために言葉を磨くということを怠ってしまう。現実に戸惑う自分を是としてしまう。

自分は、現実よりも歴史と語らうことを是とする。なぜなら、そこには言葉だけが存在しているからだ。また歴史を「過去との対話」のうちに閉ざさないために、未来の子供たちに、磨くだけ磨いた自分の言葉を投げかける準備をしておこうとも思っている。自分にとっては、そこまでのプロセスすべてが歴史である。理念とか現実とかいった区別は意味をなさない(ドゥルーズ&ガタリ風にいえば、質量・形相モデルにすぎない)。

言葉を疑うのは簡単なことだ。たとえば「愛」という美しい言葉がある。しかし、経験は、現実にはもっと醜いことを教える。それで、「愛」なるものは疑わしい、「愛」なるものは醜いと考えるようになる。だが、それはせいぜい「私欲」というべきで代物であって、それで私欲のほうが愛より真実だ、などといったところで一体なんになるのか。「愛」と「私欲」とを混同するほうに問題がある。「愛」なるものは、依然、無傷であり、美しいままなのだ。

民主政治の時代の人間は、美しい言葉より醜い現実を尊びたがる。なぜなら、それで醜い自分が慰められるからだ。しかし、そんな浅い選択肢にわざわざ耽って自分の可能性を閉ざしてなんになるのか。言葉というものを根本的に誤解している。言葉とは指令であって、自分に向けられれば「意志」になる。

別れ際に「また会いたい」という言葉がなければ、いったいどうやって自分を表現できるというのか。もう会えないという悲しい現実とともに美しい、「また会いたい」という、君の抱いた、そして次なる行為を促す言葉。歴史は、そんな言葉の積み重なりで、できている。逆にいえば、ひとのいう現実など、わざわざ選んだ醜い言葉の連なりにすぎない。ほんとうはそちらのほうが観念なのであって、現実にも言葉にも、美醜は存在する。現実主義なるものはたいてい、強いて醜い言葉を選ぶ懐疑論にすぎない。

そういうわけで、いまでは現実がひどく鬱陶しい。言葉の世界に沈潜していたい。不思議なことだが、昨今の「現実」なるものより、よほど開けている。明るくて、広くて、そして未来をむいた風が吹いている。こういう楽しい場所があることを若者に教えてやりたいと思うのだが、これがなかなかむずかしい。

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