ウィリアム・バトラー・イェイツの著名な詩、「学童たちのあいだで(Among School Children)」の最終行に、次のような一節がある。
How can we know the dancer from the dance?
(ダンスとダンサーは区別できるのか?)
この疑問文を、実存と実存者とが区別不能であることを主張したハイデガー流の修辞疑問文と受け取るのではなく、リテラルに読むことで、ある種のアポリアを表現したものと考えようとしたのが、ポール・ド・マンである。わたしの理論的な立ち位置はド・マンのそれとは異なるが、『記号論とレトリック』における彼の読解に敬意を表して、これを、歴史と歴史学の区別、あるいは歴史と歴史家の区別にも適用してみよう。冒頭のイェイツの詩は、次のように読み替え可能である。
「How can we know the spirit of historian from the history?」
(歴史と歴史家の精神は区別できるのか?)
文法の問題として提起されたド・マンの示唆は、ときに表象の問題に還元されてしまいがちであり、また事実そうした読解があとを絶たないが、おそらく、ド・マンが示唆したかったのは、ダンスとダンサーとが区別できなくなるような事態が、現実には何を意味するのか、ということのように思われる。そこで、この“ダンス”を“歴史”に置き換えることで、いまいちど、ド・マンの問いを引きついでみたい。そうすることが、このパラドックスにひそむ問題をより鮮明にするように思われるからである。
試みに考えてみてほしい。歴史と歴史学、あるいは歴史と歴史家の精神とは区別できるのか。
実際、歴史学が歴史的真実の解明を目標とする点で歴史学と呼ばれるのだとすれば、事実上歴史学は、歴史と一致することを欲望している。要するに、歴史と歴史学とが区別できなくなる地点を欲望している。もし仮に、実証に成功したとすれば、そこでは、歴史と歴史学との区別は不可能になるだろう。歴史学者が記したその学術上の知見は、実際に生じた歴史そのものだからである。
しかし、それは、歴史学の華々しい達成というよりは、歴史学の終焉であり、危機であり、ひるがえって人類の危機となるかもしれない。歴史家が真実を明らかにしたと考えるとき、いったいそこで何が起こるのか。真実が、ひとつの主観のもとにひとまとめにされ――逆に真実は歴史家の見えないところに逃げ去り、ただ真実に偽装した自分の意見が残されるのである。真実を求めて《外》へと到達した歴史家が、やっとの思いで吸い込むのは、かつて自分が吐いた息、というわけだ。もちろん、この歴史家は、これこそ歴史の事実であると信じて疑わないだろう。かくしてひとびとのさまざまな生活は、歴史家によってひとまとめにされ、窒息死する。幾人かのひとびとは、歴史に残るためならなんでもするし、そう望まないひとびとでも、そのように追い込まれる。歴史家の吐いた息を嬉々として吸い込みながら、自ら望んで窒息死する羽目になる。
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こんな事態は起こりえないと、歴史と歴史学とは別のものではないかと、笑って済ますことができるなら、あなたは幸せであるし、わたしもそうありたいものだといつも思っている。きっとあなたはこう言いたいのだろう。歴史学は、たかだかエクリチュールにすぎず、実際の歴史は、もっと物質的なもの――そういって不満ならば、《出来事》に属しているはずではないか、と。言語や記号と、日々の現実とはもともと別のものなのだから、歴史学が歴史を解明したといっても、完全に同一化することはありえないし、だから、別に歴史学が真実に到達したといってもいいのではないか、と。
だが、歴史的事実よりも、歴史家の歴史認識の方が問題にされる昨今にあって、こうした事態はけっして哲学的な詭弁というわけではない。歴史は、そうした暢気な解釈に好都合にはできていない。ヘーゲルが歴史を出来事と歴史叙述の弁証法においてみていたように、歴史は、それを叙述する歴史家なしには存在することはできない。誰かが死ぬ前になにかを書き残さなければ、歴史は存在できない。つまり、歴史ははじめから言語の姿をして現われるしかないのである。歴史と、それを叙述する歴史家とのあいだには、きわめて不平等な非対称性が存在している。歴史において、歴史家の方が、はじめから圧倒的な優位に立っている(歴史とは過去との対話である、と言ったカーには容易には同意できない)。なにしろ、こうした弁証法的な構図にもかかわらず、歴史には、歴史学者の不法を訴える権利がまったくないのだから。わたしたちは、歴史を解明しようともがけばもがくほど、イェイツの詩によく似た事態――しかも、その最悪の事態を招かざるをえない。
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ド・マンは、イェイツの詩の一節を分裂症の事例としても語っている。その意味では、この修辞疑問文を、くそまじめに受け取り、歴史と歴史学の区別を付けようと苦労するようなひとは、そしてまたこの区別が可能だと思っているようなひとは、病人や狂人なのだ。そして、この疑問文を修辞疑問文として受け取ることが健康や快癒を意味するのだとすれば、いったい、わたしたちの健康や快癒は、何を指して呼ばれる言葉なのだろうか。歴史と歴史学の区別を付けないことが、はたして本当に健康と呼ばれるべきなのだろうか。
だが、事実、ひとびとは、とりわけ近代人は、歴史と歴史学の区別を付けないところに理性的な健常者を見いだし、歴史と歴史学の区別をつけようと欲して言語をこねくり回すような人々を病院や監獄に送り込んできたのだ。だから、ニーチェの狂気に導かれながら、フーコーは言ったのだ。「狂気の歴史」が書かれねばならない、と。
歴史とは、一種の病であり、その快癒がむしろ別種の病でもあるような、そうした病なのである。歴史に携わる者は、つねに、こうした絶望的な病を背負い込む。その場にいても病、進んでも病である。
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歴史学は、真実にはけっしてたどりつけないと、絶望しながら、にもかかわらず真実を目ざしてすすむ一種の統整的理念の支配下にある。だが、ひとびとは、とりわけ歴史家は、そうしたカント主義的な諦念にはけっして満足しない。自分が苦労してたどりついた考察に対して、「これは真実ではない」といえる歴史家は歴史家ではないし、そうした状況で、歴史学を志すまっとうな人間が減少したとしても、不思議ではない。
しかし、統整的理念になにかしら希望のようなものを残しているうちは、おそらくわたしたちの未来は暗い。いずれにしても、先へと進まねばならないのだとすれば、永久に目的にたどり着くことのない統整的理念という名のおぼろげな道標に従って歩くのはあまり賢い選択とはいえない。
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《出来事》とはいったい、何であったか。それは、本当に、言語と異なるものなのか。異なるとして、ならばどのように異なっているのか。わたしはストア主義者のように考える、歴史とは、つねに‐すでに、《出来事》の死んだ形態である、と。絶対にこの形態から逸脱することはない。ダンスとダンサーを区別する前に、わたしたちにはできることがあったはずだ。すなわち――自分で踊りを踊ることである。そこでは、そもそも区別は不要である。踊っているのは、あなただからだ。区別したがるのは歴史家の悪い癖だ。炎が、歴史にはけっして痕跡を残すことのない、耐えざる運動なのだとすれば、歴史からたえず逸脱する運動こそ、舞踏なのである。歴史はけっして、舞踏ではないし、炎でもない。作物の育たぬように大地に巻かれた灰なのだ。
ニーチェは、ディオニュソスを称賛し、踊り狂いながら、次のように言っている。
私は病人の正反対である、実は私はきわめて健康なのだ。
人は、この言葉自体が踊りであることを、理解しない。