名前だけならほとんどの日本人が知っているだろう、チャップリンだが、しかし、作品の彼を実際に観たことのある人間は、ずいぶん少なくなっているかもしれない。わたしも『独裁者』をレンタル・ヴィデオで観たくらいで、それ以外は断片的にしか知らない。そんなわたしがチャップリンについて語る資格があるとは思えないが、彼の作品を鑑賞した誰もが、感嘆とともに、映画というジャンル自体がもっている力と彼とを重ねたくなるように思える。そのためにひとは言葉を費やす。
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いま、チャップリン映画祭が開催されていることを知っている人はどれほどいるか。『サーカス』や『犬の生活』、『ライムライト』など、都合六本の作品を鑑賞する幸運にあずかった。映画館に満ちた涙や笑いは、ある種の記号の散乱にすぎない、しかし、あまりに純粋な記号であるがゆえに、躊躇なく、それらに身体を任せてしまうことができる。スクリーンいっぱいのチャップリンの天才に、身をゆだねてしまう。おそらく、これは本当のことだが、チャップリンを語る資格は誰もが持っている。だが、もっと本当なことは、もはや、チャップリンの映画を語る必要など、ほとんどないということである。事実、チャップリンはかたくなにトーキーを拒み続けた。少なくともわたしにできることは、ただ、鸚鵡のように、映画と同じCで始まるその固有名を連呼しつつ、次のように語ることのみである。
チャップリンを観よ、と。