この三人について、ずいぶん、言葉を費やしたと思う。とくに、デリダについては、ここでは比較的たくさん語ったし、本当のところをいえば、もうあまり文句はいいたくない。きっと彼の人柄は、素晴らしいものだと思うから。それに、わたしは、べつに哲学研究者ではないし、その理論に対する実感を、学術論文に高めるという欲望をもたない。しかし、この三人が曖昧に一緒くたにされてきた日本の言説空間には、なにか不穏なものを感じないではない。というのも、やはり、デリダとフーコー・ドゥルーズは、理論的な方向性がまったく異なるからである。もちろん、フーコーとドゥルーズのあいだにも差異はあるし、また逆から言えば、デリダがフーコーたちと異なるのも当然なのだが、しかし、わたしには、この差異は、致命的に巨大なものに思えるのだ。たしかに、フーコーとデリダとのあいだに、表向きの和解はあったし、一時的な共闘は望むところでもあろう。だが、やはりそれは一時的なものにしかなりえないと思う。いまはまだ、デリダとフーコーたちの差異は、微細なものだ。彼らの理論は、結果的に同じ表現に帰着しているようにみえる。この差異は、デリダのフッサール論からして、すでに垣間見えていた。この初期値のちがいは、あとあともっと、それこそ取り返しの付かなくなるほどに、大きくなるだろう。左派を気取るなら、この差異は、もっと強調しておかねばならない。
わたしは、ここ最近直覚したこの差異についての正当性を、確信している。そして、もっと厄介に感じているのは、デリダの議論を批判しながら、それでいて、彼の音声中心主義の周辺をうろついている、日本の理論家たちのあいまいさである。私見によるなら、彼の理論の本質を批判するかぎり、音声中心主義批判に対して疑問を抱かないでいることはむずかしい。音声中心主義批判の恐さは、それが、ブラックホールのような禍々しい正しさに満ち満ちていることである。
プラトンやルソーにみられる音声中心主義を批判するにしたところで、わたしたちが触れることができるのは、彼らのものとされているエクリチュールだけである。彼らの声を聴くことは絶対にできない。もしかりに、なんらかの形でそれが録音されていたとしても、それは声ではなく、その本質から言えば、それもエクリチュールである。したがって、エクリチュールしか残していない人間の音声中心主義を批判することは、本来は不可能なのだが、その一方で、この批判は、現在の人間が過去の人間に対してもっている不可逆の権力関係によって、かならず成功してしまう。わたしたちは、エクリチュールにその基礎をおくかぎり、プラトンやルソーの議論を、一方的に裁く権利をもっているからである。
本来、デリダのような文献学者が持たねばならないのは、テクストに残された痕跡のあいだから、痕跡なき声を聴こうとする態度である。わたしたちの言葉は、声であろうと、文字であろうと、つねに、「彼岸」を渇望し、欲望する矢や弾丸である。テクストの外部はない、テクストの起源などないのだ、などと文献学者が語ることは、はっきりいえば、すでに届いている言葉から、目や耳を塞ぐ行為以外のなにものでもない。そのことに気づかないのは、現在の人間ならば誰もがもっている傲慢さのゆえなのである。そしてこの傲慢さが厄介なのは、現在のすべての人間が、これを慎ましさだと誤解していることなのである。「わたしは、あなたの意見がわかったなんていうつもりはありません」というわけだ。だが、本当に必要なことは、わかったか、わからなかったかではないし、相手の論理を自壊させることでもない。むしろ、いかに、生産的でポジティヴな差異を、そこから直接引き出せるかどうか、である。欲望は、つねに、外への欲望であり、だから、欲望本位の言葉はたえずテクストの外へとはみ出しているような、そんな実践なのである。こうした欲望を、否定することはできない。否定するなら、それは欲望の定義からははずれてしまう。欲望は、徹頭徹尾肯定的ななにものか、ポジティヴな差異として実現されるからだ。
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欲望はしてもかまわない。だが、それを実践に移すのは勘弁してもらいたい。これが、ふやけた民主主義的な学者流の、デリダ読解の中心である。ひとは、たえず他を犯したい、他に犯されたいという、主客未分の淫らな欲望を心に抱きながら、電車に乗り、道を歩き、そして食事している。こうした欲望をその内部に溜め込むこと、外部への発露を禁じることは、それは、欲望本来のありかたとは考えられない――というか、そうした禁止さえ、欲望が能動的に行なうのでなければならない(ちなみに、これがストア派流の考えかたである)。欲望と実践とを分割する学者流の理解は、たとえば、軍隊をもつことはかまわないが、それを解き放つことは許されないという、今日、どこの国でもまかりとおっている論理と、どのように違っているのだろうか。わたしには、まったく同じものにしかみえないし、むしろ、それらは混同されるべきものとさえ思っている。欲望を屈折させ、自身のうちに溜め込むことは、暴力を軍隊にまで膨れ上がらせることと、ほとんど大差ないのである。
むしろ、わたしなら、なんの考えもなしに母親が子の尻を叩くのと同じように、直線的で、なんら屈折していない暴力を、たえず発揮せねばならないのだと思う。欲望は発揮されねばならないが、発揮されてはならない、などというデリダ流のパラドックスなど、観照的な場所にいればとりあえず安心できる学者という人種のひねくれた欲望しか満足させないだろう。だが、そうしてひとびとの欲望を屈折させ、暴力を内側に向けることが、倫理的には使い道のない軍隊を膨れ上がらせることとどのようにちがうのか。そうした議論は、わたしにはまったく説得的ではないのである。
欲望は、本質的に実践であり、つねにはけ口を求めるものである。それを内側に向けて屈折させればさせるほど、暴力は、肥大化していく。言葉から拳に、拳から銃に、銃からミサイルに、そしてミサイルから原子爆弾に、といった具合である。
憲法第九条を、わたしは愛している。この条項は、とにかく、戦争を、わたしたちの極限まで、近づけているからだ。この条項は、人間はかならず戦争してしまう生物だという前提なしには、文章として成立しない。憲法第九条は、ひとがそうみなしているのとは逆に、ロマンチックな理想論でもなんでもない。もっと過酷であり、現実的である。ひとはかならず戦争するということを忘れているひとたちだけが、憲法第九条を不要だとみなすのである。軍隊を恒久的に手放さねばならないのは、ひとが、暴力装置を持とうとする欲望を恒久的に手放せないからである。軍隊を手放す、とは、軍隊を持たないことではない。むしろ、軍隊は、たえず手放されねばならないということである。手放すということの意味は、すなわち、外に向けて発露させるという意味であり、したがって、軍隊にまで膨れ上がるまえに、つねに、直線的で、無垢で、そして痕跡の残らない暴力を、つねに発揮し続けなければならないということを意味している。……