ニーチェとMOSQUITO

criticism
2008.09.20

蚊を叩き潰す。幼い頃、ぼくは昆虫その他小動物を愛していたので(いや、生き物全般をあれほどに愛していた時代はなかっただろう)、蚊が自分の腕を枕に食事をしているのをみても、窓の外に追い出すことしかしなかった。だが、そんな余裕はいまはない。二十代を半ばもすぎて、自分の生活が切羽詰ってからは、何度彼らの命を奪ったか知れない。ぼくはいつしか、彼らと同じ水準で戦っていたのである。だが、それは間違っていないと確信する。なぜなら、それは、生死を賭けたギャンブルでなければならないからだ。こっちも、彼らに敬意を表して、本気で戦うのだ。それで思うのは、彼らの狩猟が、異様なまでに死と隣り合わせなことである。狩る側がこれほど死の可能性にさらされているというのは、一体どういうことなのだろう。彼らは、餓死するくらいなら、殺されても血を吸うことを選ぶ。彼らの食事は、まさに《戦争》である。

彼らの芸術的な飛行は、ジダンのドリブルを彷彿とさせる。上気する熱をたよりにたやすく人間の無意識のありかを探し出し、まんまと処刑台の上で食事する。そのあとは、巨大な掌のギロチンをひらりとかわし、変幻自在の軌跡を宙に描いて一撃必殺の離脱を完遂させる。迫り来る死を前にしても、彼らはすこしも軽快さを失わない。洗練された、洒脱な動きで敵の仕掛けた網をかいくぐる。臆病なぼくなら死の恐怖に足がすくんで、黙って死を受け容れる以外にはなにもできないだろう。彼らにも、死の恐怖はきっとある。だが、その恐怖を乗り越え、死を遊び、死と戯れている。ルーレットの上で、いつも赤に賭ける。生と死のこの上ない象徴である血液のあの赤さは、彼らには、笑いに満ちた遊戯の報酬にほかならない。

ある穏やかな午前、部屋にひとり、ソファに寝転んでニーチェやイェイツを読んでいた。目の端に、腹に食料をパンパンに詰め込んだ蚊を見かけた。もはや飛行能力を半ば失うほどに人間の血液で膨れ上がった彼には、いつもの敏捷さは影も形もなかった。飛翔というにはあまりに鈍重な、それこそ引退間際の太った名選手のような羽ばたきを繰り返しながら、窓の外に向かってぴょんぴょんと蛙のように飛び跳ねていた。もちろん、ぼくは、放っておいた。彼を殺すことで、自分の手を自らの血で汚すことになる愚かさを即座に悟ったからでもあるが、なにより、彼は完全無欠の勝利者だったからである。

生きることが、同時に死ぬことでもあるような、彼らの生を、人間は失ってしまった。《戦争》は、そうした文字通り致命的な喪失を補うために人間が自ら作り出した、擬似的なゲームである。ひとは、生きるために、《戦争》を発明したのだ。だが、それは、近代以降、あまりに非対称的なものに成り下がり、圧倒的な物量の差を前提にした、たんなる殺戮や処刑になってしまった。《戦争》は、生と死を賭けたゲームではなく、罪を弾劾する司法と同じことしかできなくなってしまった。つまり、それは賭けではなく、ゲーム性を欠いた処罰である。《戦争》は、かつてのような遊戯であることをやめてしまった。

ひとは、生命をもっているかぎり、死の可能性を自ら求めることを、やめることはできない。なぜなら、それこそが、本当の意味で、生きることだからである。ぼくは、そうした場所で生きられた思想にしか、可能性を認めない。本当に死ぬことによってしか生気を回復させられないような思想には、興味を感じることができない。真の思想には、その持ち主が肉体的に生きているときから、すでに生き生きとした死が折りたたまれている。入れ代わり立ち代わりしながら、おたがいに無二の伴侶に活力を与え合っている。現実には、たえずどこかで行なわれている戦争を、ただ黙殺することで得られた怠惰な平和は、人の生を、死なないでいること、という消極的な、間延びしたものに変貌させてしまう。そうした消極性は、かならずひとを衰退させる。

だが、そのようなことは、ひとが生命であるかぎり、絶対に続けることができない。もっとも高貴なドイツ人であるニーチェが看破したように、死の可能性を遠ざければ遠ざけるほど、《戦争》はどんどん肥大化していくだろう。死の可能性が桁違いに減少すれば、その分だけ、《戦争》の規模は桁違いに増大する。それが人間の背負った業であり、近代が長い時間をかけて証明した不思議な事実である。だが、《戦争》がその遊戯性を失い、ただの処罰に成り下がった1945年以降、戦争を求めるのは愚かである。そこには、《戦争》が《戦争》であるために必要なギャンブル性が皆無だからである。たとえば、アメリカは、戦争を行なえば、かならず勝つ。政治的にあとから勝敗をひっくり返すことができたとしても、ひとの生き死にとは無関係である。アメリカは、今日では、勝たないために、手加減しなければならない。核兵器や爆撃機を手にして以来、つねに手加減することによってしか、見かけ上のギャンブル性を回復することができなくなってしまった。それは、《戦争》ではない。茶番である。

誤解を恐れずにいえば、そして物騒な物言いであることを承知でいえば、今日、本当の意味で生きているのはテロリストだけである。蚊のように、ほんのわずかばかりの先進諸国のひとたちの血を吸うために、命をすべて投げ出すのだ。そして、蚊を殺す人間のように、彼らを暴力的に撲滅することさえ辞さない先進諸国のひとびとには、生を喪失したその見返りに衰退が約束されている。先進諸国のひとたちには、もはや、戦争することで生を回復することはできない。もちろん、だからといって、戦争をただ目の見えぬ彼方に遠ざけることによっても、生を回復することはできない。戦争することも、戦争を黙殺することも、結局は、同じ逃避的な行為なのである。

だが、だからこそ、先進諸国のひとたちだけが、平和を《勝ち取る》という、新たなステージに立つ権利をもつ、ということもいえるだろう。戦争以外の手段によって、《戦争》を回復しなければならない。もはや、われわれに可能な選択肢はない。ただひとつ、すべてを《平和》に賭けること。それだけが、ギャンブルでありうる。もちろん、簡単なことではない。戦争を運命づけられた人間が平和を《勝ち取る》ためには、人間を、根本から作り変えねばならないからである。要するに、《進化》の可能性に賭けねばならない。われわれは、われわれが思っている以上に、世界大戦の危機に曝されていると思う。

ニーチェが見いだした結論、それは、世界大戦か、それとも超人か、であった。ニーチェは、超人の可能性に全財産を賭けて、発狂した。発狂しなかった人類はどうしたか。世界大戦をやすやすと、それも嬉々として迎え入れたのである。

蚊に刺されたぼくは、来るべき超人のために《文学》することに決めた。戦争以外の手段によって戦うことのできる新たな人類。蚊に刺されたおかげで、そんなことを妄想しながら午後を待つことになった。……

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