パゾリーニ初のカラー作品。パゾリーニ自身、この作品を「映画的」であると評しているように、きわめてよくできた作品であろうと思われる。『奇跡の丘』を撮った後、あいだに3作を経て、それなりに映画的な手法をパゾリーニが身に付けていったという言い方もできるだろうか。
フロイトによるエディプス・コンプレックスで有名なソフォクレスのギリシア悲劇『オイディプス王』を題材にした作品であるが、もちろん、パゾリーニの作家性が、このギリシア悲劇の名作の忠実な再現など許しはしない。プロローグとエピローグに登場する戦前から戦後にわたる現代と、古代ギリシア世界―それも日本の雅楽が鳴り、ジャワの舞踏曲が奏でられるトルコの荒野で繰り広げられる―を交錯させるパゾリーニは、フロイト的オイディプスが地獄の円環のなかにあることを示しているのかもしれないし、あるいは、フロイトが『快感原則の彼岸』で語らずして語ったように、生と死、エロスとタナトスが、そもそも偽装された反復―同根であること―を示しているのかもしれない(「私はもちろん美しい映画を作りたいが、ただ美しい映画を撮る必要は決してなかった。私には他の刺激が必要だ。ここではそれはオイディプスのテーマのマルクス的、フロイト的発展なのである」)。だが、なににもまして、この作品にしばしば登場する、台詞の文脈を無視した登場人物の「笑い」こそが、オイディプスの地獄の円環を破壊し、脱却する手がかりとしてあるにちがいない。パゾリーニがそのことを意図的に演出したか否かはここでは問題ではない。実の父を殺し、母と寝るというアポロンの神託を聞いたオイディプスがこらえきれずに洩らした「笑い」は、後のドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』へと確実に連なっているのである。
例えば、オイディプスが父を殺すシーンの太陽の光。例えば、オイディプスがスフィンクスを打ち倒したあと、歓喜とともに走りだす群集。例えば、疫病で死んだ人々を焼き尽くす炎。この作品を鑑賞した直後に湧きあがったパゾリーニの野蛮さへの興奮がいくらか去った後で、つとめて冷静さを装いつつ、この作品を振り返ってみれば、確かに、ドキュメンタリー的に撮られた(手持ちキャメラによる手触れだらけの映像、極端なクロースアップ、巧みに遠近法を意識させる撮り方、そして自由間接主観ショットなど)映像美や、彼なりの歴史的な(脱歴史学的な)考察などに、いかにも明確に作家性が現われている、あるいは現われすぎているといえるのかもしれない。主演のフランコ・チッティの様式的な(記号的な)演技がそれを助長しているし、如実にわかりやすい身体的な感動を呼び起こしもする。いつものわたしならそのような明白すぎる感動は拒絶しようとするだろう。だが、そもそも、あの野蛮さを作品の始まりから終りまで持続させつづけるというそのことが、もはやわたしを冷静さから遠ざけている。パゾリーニはわたしに野蛮さを強いているのだ。わたしからすれば、冒頭で述べたテクニカルな映画的手法を身に付けつつあったパゾリーニが、なおもこのような野蛮な作品を撮り上げたことが奇跡的なのである。
パゾリーニ、なんたる舞踏、なんたる逃走……!
監督・脚本・音楽選曲:ピエル・パオロ・パゾリーニ
制作:アルフレッド・ビーニ(アルコフィルム)
原作:ソフォクレス『オイディプス王』『コロヌスのオイディプス』
撮影:ジュゼッペ・ルッツォリーニ
カメラ:オテロ・スピラ
助監督:ジャン・クラウド・ベッティ
美術:ルイジ・スカチアノーチェ、アンドレア・ファンタッチ
衣装:ダニーロ・ドナーティ
編集:ニーノ・バラーリ
音楽:モーツアルト(弦楽四重奏曲ハ長調K465「不協和音」)、ルーマニア民謡、雅楽、ジャワ舞踏曲ほか
出演:シルヴァーナ・マンガーノ(母イオカステ)、フランコ・チッティ(オイディプス)、アリーダ・ヴァッリ(メロペ王妃)、カルメーロ・ベーネ(クレオン)、ジュリアン・ベック(予言者テレシアス)、ルチアーノ・バルトーリ(ライオス王)、フランチェスコ・レオネッティ(ライオス王の下僕)、アーメッド・ベルハチミ(ポリュボス王)、ジャンドメニコ・ダヴォリ(ポリュボス王の羊飼い)、ニネット・ダヴォリ(アンゲロス=アンジェロ)、ピエル・パオロ・パゾリーニ(大司祭)
1967年/イタリア/104分/イーストマンカラー/スタンダード