原題は「マタイ福音書」。パゾリーニ監督の名を決定的にした64年監督作品。一時はカトリック教会から有罪判決を食らったほどのパゾリーニにあって例外的に美しく、教会からも高い評価を受けた作品。だが、イエスの母役に自分の本当の母親を起用するなどして、パゾリーニはイエスになろうとしている、などと叩かれたりしたらしい。
記号がある。一連の記号がある。イエスであり、若き母マリアであり、年老いたマリアであり、ペテロであり、ユダであり、イスラエルであり、ゴルゴダであり……。
これらのあまりに美しすぎる諸記号は、しかし、本当に記号なのだろうか?確かに、いうまでもなく、それらはイマージュである。宿命的なまでに美しいイマージュである。
イマージュの記号〔シーニュ〕? いや、はじめに、記号=名前があった。ヨハネをもじっていうなら、「世界〔イマージュ〕が存在する前から、記号=名前があった」のである。
この作品をみていて私の心をとらえて離さなかったのは、キャメラの視線の多様さである。まさにイマージュの記号(言語記号ではけっしてない)ともいうべき映像美のなかで、だれがイエスをみていたのか? ときには群衆の間を縫うような視線がイエスをとらえ、ときにはそれはユダの視線となる。そしてあるいはイエス本人の視線が映像となって映し出されることもあろう。このキャメラの多様さが映画を観ている間じゅうずっと私をとらえて離さなかったのだが、あとで解説等を読み直してみると、ドゥルーズもそのことを言っていたらしい。このような視線=主体の自由な移動をして、ドゥルーズは、パゾリーニにこそ自由間接話法-自由間接主観ショットの始まりをみており、そこにはマラルメのごときポエジーが現われているのであって、これを記号論を乗り越える試みとして高く評価している(『シネマ2』)。
確かに、ここで現われているのは、イエスの記号であり、マリアの記号であり、預言者の記号であり、イスラエルの記号である。だが、この記号が‘イマージュ’としてあらわれている、ということが否応なく事態を複雑にしており、あるいは単純にしすぎている。われわれはもはやここに歴史の復元のごとき幻想を抱いても許されるのではないか……という思いに何度となくとらわれる。だが、そうではあるまい。これはむろん復元=再現前化ではなくて、反復である。フーコーなら冷静にこう分析して見せるだろう、パゾリーニのイマージュにおいてあふれてくるのは、言表行為としてのみあるような記号、すなわち生のイマージュのままの記号なのである、と。彼はありふれた、しかし執拗に継起する記号論を乗り越え、<記号>へとたどりついたのであり、ストローブ&ユイレにも通じる唯名論的な唯物論(?)がここにはある。後にはベルトルッチにも受け継がれるだろう、陰影の濃い、うつろな表情、人間の<顔>、をここまで間近に、いわば皮膚を撮った作品として、ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」を思い出すが、ドライヤーのそれがテクニカルであって、どちらかといえば概念的であるのに対し、パゾリーニのそれは確信犯的ではあってもあくまでポエジーに属している。この<顔>は、たしかに、素顔である。だが、素顔であると同時に仮面でもあるような、<顔>なのだ。JLGは、映画を美容産業であると言ってはばからなかったが、その意味は、この作品に登場する<顔>にこそ、よく現われているといえる。
歴史とはイマージュによってのみ可能である。こう言ったのはJLGだった。彼の『映画史』においてそれは見事すぎる手管で実現されていた。そのなかで幾度となく取り上げられていたこの『奇跡の丘』が、あるいは偶然的になしとげられた自由間接主観ショットが、その仕事を先駆的に成し遂げていたのではないだろうか。そう思わざるをえない率直さ、ダイレクトな感動がこの作品にはある。JLG、と、ストローブ&ユイレ、と、パゾリーニ、と。……
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監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
製作:アルフレッド・ビーニ
撮影:トニノ・デッリ・コッリ
音楽:J・S・バッハ、A・ウェーベルン、モーツァルト、S・プロコフィエフ、コンゴの「ミサ・ルバ」、ソ連革命歌、黒人霊歌(時には母のない子のように)他
出演:エンリケ・イラツォキ(イエス)、マルゲリータ・カルーソ(若きマリア)、スザンナ・パゾリーニ(老いたマリア)、マリオ・ソクラーテ(預言者ヨハネ)、マルチェロ・モランテ(ヨセフ)、セッティオ・ディ・ポルト(ペテロ)、オテロ・セスティリ(ユダ)、フェルッチオ・ヌッツォ(マタイ)、ジャコモ・モランテ(ヨハネ)、アルフォンソ・ガット(アンドレア)、エンツォ・シチリアーノ(シモン)、ジョルジョ・アガンペン(フィリポ)、ナタリア・ギンズブルク(マグダラのマリア)、アレッサンドロ・タスカ(ポチョ・ピラト)、ニネット・ダヴォリ
1964年/イタリア/137分/白黒