‘サイコ’という用語を世界に知らしめた、ヒッチコックのもっとも著名かつ、最高傑作の一つに数えられる作品。低予算で作られたことでも知られる。冒頭でフェニックスの地名が字幕で現われるのが印象的。中盤でのちょっとした出演者のやり取りをわかりやすくするために導入されているのだが、そもそも観者への説明的な態度は、観者を映画への感情移入から阻害する。だが、ヒッチコックの天才はこのことすら利用している。事実、冒頭で現われる説明的な態度とは打って変わって、あるいはこれまでの巧みに感情移入させる諸作品とは正反対に、あくまで唐突に話は進む。出演者の感情の動きは最低限度に抑えられる。また、マリオンの運転する車の内部において聞かれる彼女の心のなかでの対話=モノローグ(不安の意識)は、まったく通常の会話と同じ強度でなされるため、車外の《現実》と車内で展開されるマリオンの心の動き<非現実>がまったく等価値になるか、あるいは逆転してしまう。運転中、次第に雨が強くなり、視界が悪くなるにつれて、《車外=現実》と《車内=非現実》の差異はさらに混沌としてくる。マリオンがノーマンの経営するモーテルにたどりついたとき、そもそもマリオンは、《車外=現実》に出ることなく悪夢のようなモーテルへと場所を移すのである。彼女はもはや外へ出ることはないだろう。悪夢のような内に閉じ込められるだろう。ノーマンがそうであったように。
この自閉的な空間を表現して余りある宿命的に美しいモノクロームの画面は、そもそもコントラストという表現を廃棄して余りある強度を保っている。ここでは、白は黒の対比として、あるいは黒は白の対比として現われるのではない。したがって、その中間色というべきものは存在しない。すべてが強度の色彩として単独に存在しており、その色彩のすべてが――したがって遠近法も――ヒッチコックによってコントロールされうる映画的道具となっている。すなわち、映画のイマージュにおける色彩や遠近感は現実を模倣するためにではなく、ヒッチコックの映画的表現に完全に従属しており、また言うまでもなく、その天才的な手際で見事にそれらは駆使され、活力を与えられている。
最初のあまりに突然の殺害シーンからつづく出演者の、そしてヒッチコックの、迫真の――、いや、現実を超えた演技、演出は、わたしの背筋を幾度となく凍りつかせた。このレヴューの編集のためにネットサーフィンしながら上の画像を見つけたときに背筋を走ったひどい悪寒は、もはや例えようもなく、このレヴューを打ち込んでいる今もまだ続いているのである……。
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監督・製作:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ロバート・ブロック
音楽:バーナード・ヘルマン
撮影:ジョン・L・ラッセル
出演:アンソニー・パーキンス(ノーマン・ベイツ)、ジャネット・リー(マリオン・クレーン)、ベラ・マイルズ(リラ・クレーン)、マーティン・ベルサム(ミルトン・アーポガスト)
1960年/アメリカ/108分/白黒