フーコー、ドゥルーズ、デリダ。この三人が死に、いわゆるポスト構造主義をリードした人間がいなくなって思うことは、いまこそ、この三人の可能性が賭けられている、ということである。死は、人を、現在から、過去と未来とに送り返す。だから、われわれは、死んでしまった三人の人物の書いた書物を、目的論的に読むことができる。始まりと終わり、原因と結果、手段と目的、問いと答え、私と貴方、生と死――すなわち、歴史が、彼らを、弁証法の運動に回収するだろう。彼らは、まさに《他者》へと変貌したのであり、《目的の国》へと旅立っていった。つまり、彼らは、《われわれ》の中から漏れ出てしまった。
私の本質とは、日本人であることであり、したがって、日本人としてあることが、私を獲得することである――。再自己固有化の権化でさえあるような、ヘーゲル主義の前人未到の悪名は、しかし、思っているほどにはヘーゲルには降りかからない。ヘーゲル主義は、自己を目的に従属させると人は言う。だが、そのことと、自己を《他者》へと向かわせることとが、どう違っているというのか? われわれは、ヘーゲルを目的論的に読む。つまりヘーゲルはいつも読み手の目的に従属されてしまう手段に堕す。
ヘーゲルは、法とはシボレート(合言葉)だと語る。だがそれは、おそらく、われわれが思っているほど、あるいは『旧約聖書』が一見して語るほどには、弁証法的なもの――すなわち、答えがあらかじめ用意されているものではない。人を殺すな、という言葉=法を、どうして、“合言葉”として期待できようか? 人はそれを、“合言葉”として期待することもできなければ、また、期待しないこともできはしない。彼は、カントを批判して、「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」と語る。そこに、“言葉”と“物”との全く新しい、活き活きした関係が見て取れはしないだろうか。
事態は単純ではない。われわれは、カントからヘーゲルへの道のりを、それほど単純なものと考えてはならない。いやむしろ、カントからヘーゲルへ、ヘーゲルからカントへの道は、敷かれてはいないのだ。彼らは別々のことを言っており、そしてにもかかわらず、似たようなことを言っている。理念は構成的に使用されてはならない、統整的に使用されねばならない、理念とは、超越論的《仮象》である……。理念とは、現実であり、現実こそ理念である・・・・・・。この二つの言葉は、違う言葉であり、違う現実を指し示しており、そして、にもかかわらず、“合言葉”のようにわたしには響く。
危険である。危険であろう。わたしが言っていることは、きわめて危ういことである。カントからヘーゲルへの道なき道を通すこと、これは、私見によれば、それ自体が、もっとも危険な道のりとなる。カントとヘーゲルの結合は、わたしの知るかぎり、最悪の出会いである。死の世界は理念である、しかしそれは同時に現実である――生と死は、つまり、同じものであり、生には死が、死には生が折りたたまれている――生きることは死ぬことであり、死ぬことは生きることである……。しかし、わたしには、フーコーやドゥルーズやデリダやらが、わたしに、その道なき道を行けと言っているように聞こえる。いったい、それは、どういうことなのだろうか?
目的の国はない。あの世もない。宇宙人もいない。あなたが無人島に住んでいるとして、存在するかどうかもわからぬ外の世界に手紙を書き、それを壜に詰めて流すとすれば、あなたなら、それを何語で書けばよいと思う? わたしは思う。それは既存の言語であってはならないし、また、既存の言語でなければならない。予期せぬ言語でなければならず、また、予期された言語でなければならない。言葉とは、そして物とは、いったい、何なのか、それらはまた、いったい、どういう関係を織り成しているのか。同一性とも同一化ともまったく関係しない差異とは、それ自体がもっている差異とは、いったい、何なのか。わたしはそれを知っている、だが、それについて、何も知ってはいない。わたしはいったい、何を書いているのか、それをわたしは知らないし、また、知っている。わたしは何を書けばよいのか、知らない、しかし、何を書かねばならないかを、おそらく、ちゃんと知っている。《生と死とが問題である》――この、日本語で書かれたありふれた苦悩は、しかし、けっして、ありふれてはいない。