ホメロス礼賛

diary
2008.11.03

久しぶりに、ホメロスの『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読んだ。ぼくがホメロスをはじめて読んだのは、中学か高校の頃だった。実家には、ギリシア悲劇の全集はあったが、ホメロスはなく、それで図書館で借りて読んだのだ。誰に薦められたわけでもないが、ぼくはギリシア・ローマが、どういうわけか、とても好きだった。教科書なんかでみる、あの均整の取れた彫像のリアリティは、どう考えても、あらゆる諸文化・諸文明を傑出している、という風に根拠なしに思っていた。『イリアス』も、『オデュッセイア』も、ぼくが事前に期待するような風には書かれていなかった。だが、それでも、ホメロスはぼくにとっては特別な存在だった。

ローマの風刺作家ルキアノスは、《ホメロス的建築術》について語っている。彼によれば、《ホメロスは、わずか二、三行の言葉で、オリュンポス山にパルナッソス山を積み重ねることができた》。ぼくはルキアノスの言葉に納得する。そうだ、ホメロスはやっぱりすごい。彼は、《わずか二、三行の言葉で、山に山を重ねることができる》。

ホメロスと並ぶ文学者ヘシオドスは、ムーサの女神、今日では《音楽》の語源となっている彼女に、次のように語らせている。「野山に暮らす羊飼いたちよ 卑しく哀れなものたちよ 喰いの腹しかもたぬ者らよ/私たちは たくさんの真実に似た虚偽を話すことができます けれども 私たちは その気になれば 真実を宣べることもできるのです」(『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫)。

「その気になれば 真実を宣べることもできるのです」。かのシュリーマンの狂気がトロイアの遺跡を発掘したとき、『イリアス』は、《言表》(フーコー)となった。ホメロスの言葉は、数千年を経てなおいまだ生き生きとして、やがて満ちて、そしてついに溢れて《出来事》となった。プリアモス、ヘクトルの親子や英雄アキレウスは、ぼくたちとは違った形で、本当に存在する。

カントの歴史的な時間概念とは異なるこの《文学》的な時間概念を、うまくひとに伝えるのはむずかしい。《文学者の言葉は、まだ生きている。不思議なことに、死んでいないのだ》。

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