自分にしかできない仕事を。それを意識して書いたのが、今度の『存在の歴史学』。世間が自分の仕事をどう受け止めるのか、受け止められもせず、どこにもたどりつかないボトルメールになるのか。世間はともかく学界は? もっと期待できない。それは歴史学じゃない……って回答かな。
歴史を仕事にする過程で、哲学や文学をそれなりに極める必要があるのに気付いた。昨今の歴史学者が泥んでいる場所とはまったくちがう、もっと真面目な仕事場があると、思うようになった。そこは生活者と未来のある場所。そこが歴史学なのかどうか、自分でもよくわかっていない。人文学である、とはいえる。
自分はこう考えている。歴史であっても、十分に、生活者と未来のある場所にたどりつけると。それくらいに、意味のある学問だと。歴史を趣味とする人間たちの内向きの集まりとは、歴史は関係ない、と。
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自分は、自分の学問の幅を学界に合わせようとは思わなかった。学界ではなく人間の「歴史」に忠実でありたかったから。だから学界的な歴史学ではない、というのは、自覚している。だが、昨今の学界がほんとうに「歴史」に忠実か、自分にくらべて、学界の人間がどれほど真面目なのか、それは問いたい。
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といっても、応答はないだろう。とにかく孤独。それでこんなところで管を巻いている。革命を諦めたわけではない。生そのものに触れることも諦めていない。ただ学界については、このところ諦めモード。理屈なしに、若いひとと喋るのはつらい。昔、デカルトというひとがいてね、それから……。
きっと彼らの教師がいけないのだろう。おそらく教師は自分よりもひと世代かふた世代、上の人間で、歴史はこういうものだ、という素朴な決めつけがあり、教師の決めつけた枠のなかで、怠惰な、若いひとたちは、自由をみずから捨ててしまう。そうしないと博士号がもらえないから。
しかし、そうした世代に挟まれて(べつに自分の同世代に味方がいるわけでもないが)、自分はいったい、誰と、誰のために戦っているのか。願わくば若いひとのために、と言いたいところだが、べつに若いひとがそれを望んでいるわけでもないのだ。ずっとそんな感じで二十年間、仕事をしている。
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いつのまにか国立大学に職を得て、多くの学生に囲まれ先生と呼ばれ、それで満足すればいいのに、まだ欲求不満で、孤独に走り続けている。博士号を取ってからは、ずっとマラソンだ。もうこの先、区切りはなく、ゴールは死ぬときだ。
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