テクノロジーとアート、つまり記憶と忘却の狭間で、歴史になにができるかと考える。歴史を愛することは、嘘をつき、忘れもするひとの知のすべてを愛することでもあるはずだ。
久しぶりにプラトンを読んでいたら、いつのまにか眠りに落ちていた。照明が煌々と輝いていて、足下が暖かく、それで誰かと議論していたように思ったのだが、もちろん、誰もいない。足は冷たくなっている。いや、私はいったい、誰と喋っているのだろう?
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さて、論文がだいたい出来上がる。書きたいことの半分も書けなかった。執筆の時間は、訪れる現実の恐ろしさからの逃避以外のなにものでもなかった、という自分には珍しい論文。書き上げたあとのリファインは、時間が許されれば、わりと楽しんでやる方だが、現実はなかなかそうもいかない。
油絵のように、ロシア人の小説やフーコーの哲学書のように、一本の線にも、幾重もの襞がある、暑苦しい感じにしたい。自分の場合、ふつうは欲求不満が論文を書く動機だが、まだまだ欲望が足りないのだろう。
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憲法が変わるにせよ変わらないにせよ、国家の統治は多数者のつくる中心に向けられる。だからボーダーにいる少数者の生はとても脆弱だ。人権が問題になるとき、国家はボーダーにいる者でなく、中心を占める者に語りかける。それによって、人間の定義を経済的に決定し、ボーダーそのものを決定する。
人文学者の普遍的な課題は、中心でも周縁でもなく、ボーダーそのものであるような少数の者たちによって、現行の国家とは別に作られている隠れた一貫性、秩序をみつけだし、それによって世界を論理的に説明し切ることである。そうした人文学者の基本的な態度について、春になるたびに確認しておこう。
社会的、経済的、政治的にボーダーにいるひとたち。彼らに目を向けることは、学問を政治活動に従属させることではない。ただそこは、中心(中心ー周縁図式)にはないなにかがある。学問の可能性、ひいては人間の可能性が湧出するerehwon。人文学者は、そこに否応無しに目が向いてしまう。
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学者は当然知識人である。とりわけ、学問それ自体で戦うことを強いられている(といっても望んでそうしたのだが)人種だ。だから対処療法的なやり方の必要を認める一方で、根本的な問題に目が向いてしまう人種でもある。だから、たとえ迂遠にみえても、誰も通りたがらない道を歩むことが多くなってしまう。
しかし多くの場合、社会はそうしたやり方を求めておらず、たえず目に見える形で社会に還元されるやり方を求めている。そしてそのほうが他人からは評価されるから、いまやますます学者もそうすることを望んでいる。しかし、大きな円を描くためには、どれだけ迂回できるかが、重要になる。
それは孤独なやり方になる。孤高を気取る気位の高さが鼻につくようになる。しかし、とはいえ割合、楽しい道のりになることが多いのも事実だ。人間に会うことはすくなくても、魔法使いや妖精に会うことはたくさんある。ボーダーとは、そうした場所でもある。遠く深いところへいく冒険に似てくる。
そうして、彼は誰よりも深く遠くへと足を向ける、きわめて専門的な冒険家でありながら、同時に、人間中心の世界と戦う知識人にもなれる。人文学者は、そうした知識人を目指すべきだし、実際問題そうするよりほか仕方ないと、自分は思っている。
学者は、おのれの不思議な欲望にしたがって、いつも真理を追求しているし、それが結局は世の中の役に立つと迷信している。しかし政治家の世界はそうではない。真理以上に、ある種の嘘によってでも、人を動かさなくてはならない。真理といえないものが評価になる世界を生きているからなおさらである。