彼は、名をメティスといった。メティスは、つい、いましがた、劇場を後にしたところである。彼は、またしても公演の途中で劇場を後にしてしまった自分を呪った。劇が終わるまで座席に座る、という、ただそれだけのことが自分にはうまくこなせないのだった。パラス・アテナを見晴るかす遥かな太陽は石畳の小石の隙間さえ日差しに染めていた。しかし、メティスの恥を感じるところがあまりにも深いために、彼のところだけは忘れられたように陰翳が垂れ込めていたのだった。太陽に存在を忘れられてしまった不幸なメティスは、父の言葉を思い出していた。彼の父、カイレポンは、ソクラテスの友人であり、たびたび、父がソクラテスを激しく賛美するのを聞いていたのである。彼は自宅に客人を招いてはいつもこう言っていた。「ソフォクレスは賢い、エウリピデスはもっと賢い、しかしソクラテスはもっと賢い、と、デルフォイの巫女が言ったのだ」。そして、いつものことだが、酒がまわってくると、巫女からの伝聞を示す一節がまったく抜けてしまいすらしたのだった。
息子であるメティスから見ても、父カイレポンは、自分がソクラテスの友人であることに深い満足を感じているのがわかったし、ソクラテスのことを喋るときの父の誇らしげな姿は、メティスには偉大で驚異的なものに見えた。そんな剛毅な父を眩しそうに見つめながらも、しかし、アテナイ市民に生まれた若者らしく、心のどこかで、そうした父に不満を感じていないわけではなかった。彼は、弁論家になるよりも作家になりたかった――要するに、彼には、父ほどの剛毅さはなかったとしても、父にはない大それた野心があったのである。彼がいましがた感じている自分への深い絶望は、こうした野心の挫折から来ていたのだった。自分が、街路に転がっている砕けた壷の破片のように思えた。
メティスがつい先ほどまで、ある決意をもって鑑賞していた劇とは、エウリピデスのそれであった。あの(父の絶賛する)ソクラテスが絶賛したという、エウリピデスの「オイディプス王」を観てきたところだったのである。
彼は恥辱に塗れ、今にも泣きそうに肩を丸くして歩いた。彼は、いつもある場面までは鳥肌が立つほどに興奮し、かつその背後に悲しみのようなものまで感じている自分がいるのを知っていたが、ある場面で、それが急速にいたたまれなさに変わるのを感じるのだった。咽喉がつかえ、そして胸の辺りが次第にむずがゆくなり、それがついには全身を覆うと、もはや彼は座席を立ち上がらざるをえなくなった。それを彼は三度繰り返した。誰もが絶賛するそのシーンを理解できないときのその辛さは、野心を抱いたこの若者には絶えがたいものだった。周囲の観客に興奮のまなざしを見つけるたびに、そのまなざしがメティスをあざ笑うように感じた。この年代の若者にはよくあることだが、ある種のロマンに乗り遅れたことを自覚する瞬間が、一番辛いのである。作家たるもの、そうしたロマンにはもっとも敏感でなければならないにもかかわらず。
ところで、その問題のシーンとは、コロス合唱隊が壇上から歌を歌う場面だった。彼らと目が合うたびに、それまでの興奮がうそのように醒めて激越な恥ずかしさに変わり、ついにわれを忘れてその場を離れてしまうくらいに統御不能になってしまうのである。コロス合唱隊のなかに、とくに凛々しい男性がいたわけでもなければ、とりたてて品のよい女性がいたわけでもない。とにかく、コロス合唱隊が歌を歌い、突如として存在を主張し始めるその瞬間が耐えられないのである。
彼は一度として、父を疑ったことはなかった。ということは、つまり、ソクラテスも疑ったことがなかったのである。同世代の若者が、ソクラテスを醜いしびれえいだと誹謗しているのを知っていたし、またおのれのソクラテス(つまりは父)へのほとんど無条件に近い痛切な賛美に対して、親切にも忠告を与える者までいたくらいだが、それでも、彼のソクラテスへの評価は悲壮感すら漂わせるほどに絶対的だったのである。
つまり、彼にとって、ソクラテスが褒め称えたというエウリピデスをまともに鑑賞することすらできない以上、作家として、死刑宣告を受けたも同じだったのである。大観衆の恍惚としたまなざしは、彼の自分への失望を、ついに絶望へと変えたのである。彼はまるで、父親が怪物のように思えた。ソクラテスやエウリピデスよりも、父が恐ろしかった。それで彼は父にこう言った、ぼくはエジプトへ行く、と。
メティスは船上で波に揺られながら、ふと、自分がまことに愚かしい男であるように感じられた。それで仕方なく、海に飛び込む決意をした。海の中に、人影を認めたように思ったからである。海は暖かだった。いや、そんなことはどうでもよかった。海の中には、やはり誰一人いなかった。人間の姿は認められなかった。怪物だけが、周囲を所狭しと泳いでいるのだった。
メティスは、こうして、作家になることを諦め、ペニアという子を産んで死んだ。