マルクスと未来

criticism
2021.06.23

マルクスは講義でちょくちょくやっている。彼の『資本論』も、第一巻は5回、6回と読んでいる。それほどの人物、それほどの思想だ。マルクスにおいて、一番重要だと自分が思う、思考の基礎はなんだろうか。

ぼくはもともと、現代性(モダニティ)を毛嫌いしている。現代よりも未来をみたマルクスやニーチェの姿勢に共感している。現代に満足する豚でいたくない。現在に不満だから、ブーブーいう。つまりブーブーいう豚でいたいのだ。自分は、現代の醜い姿の由来を説明するために歴史を参照していない。歴史のなかから、せめて現代の醜さとは無縁の、未来に伸びる可能性をもった種子や芽、卵を探し出して、それを育むことを考えている。

要するに、自分は、若い世代のために仕事をしている。若い世代といっても、身近な後輩たちではない。二世代先の未来だ。直近の世代には、話しているうちに関心が薄れていく。現代性にどっぷりつかっていることがほとんどだから。ぼくは聞きたくなる。自分たちのことを考えてくれない上の世代の批判はいいけれど、ところで君たちは未来のために仕事をしないのかい?

自分にとって社会は、転変するものだ。同じ姿はついにとらない。だから、刹那の姿の由来を歴史にたどっても、時を重ねれば、真理にみえたものがその資格を失うのは当然のことだ。真理の資格を喪失するのが目に見えていることに取り組むのは、ぼくの学者の定義に反する。だから、せめてありうべき未来を構想しながら、過去を参照する。

そこで、マルクスだ。マルクスの偉大は、現代を歴史の帰着点とせずに、過去を参照したことだ。彼にとって現代性は、来たるべき共産社会の通過点にすぎない。現代性についてなんの疑問もなしに、現代の歴史学者が過去をひもとくかぎり、いかにマルクス主義が古びても、その足元にも及ばない。

たとえ実現不可能にみえる未来であっても、生前には、自分の努力が報いを得られないような、遠い未来を構想しながら歴史を紐解くことが、転変する現代にいたる由来を過去にたどるよりも、ほんとうははるかに真実性が高いのである。未来を構想しない歴史学者の真理は、次の日には真理性を喪失する。

いかにその実現可能性が低くても、未来をふくめた思考のほうが、現代に対して予定調和的な思考よりもはるかに勇敢で、かつ、学問的にも正しい。そういうふうに思える学者が、いまは少なくなった。いつもそういう若者に出会いたいと思っているのだけど。なかなか。

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