《無》とは、多様性のことだ、といえば、読者は混乱するだろうか。あるいは、《無》が「存在」を可能にするのだ、といっても、読者は混乱するだろうか。とはいえ、「存在」は、多様性を抹消する《無》のおかげで可能になる、というのは、おそらく真理である。
サルトルは、《無》と存在の関係について考えた数少ない哲学者だが、しかし、重要なことは、「存在」ではなかった。そして《無》でもなかった。《無》が消し去った多様性の方が、もっと重要なのである。世界がもっているあらゆる可能性/多様性を抹消するかぎりにおいて、わたしたちは、「存在」することができる。この「存在」を成立させる抹消記号こそが、《無》である。したがって、デリダがいうように、痕跡とは抹消記号のことだが(そしてその抹消記号こそが「存在」のことだが)、とはいえ、それは同語反復にすぎない。
痕跡は、多様性に《無》の符牒をはりつけて人間を限界づけているわけだが、そうして「存在」という語のなかにあらゆる可能性を消し去ってしまう前に、わたしたちは、たとえば目の前のパソコンを壁に向かって投げるとか、あるいは今イヤホンで聴いているミュージックプレイヤーの電源を切るとか、あるいは家の外に出て蛙の鳴き声に耳を澄ますとか、あるいは美しい女性がこちらを振り向く姿を思い浮かべるとか、あるいは自分が食べようと思っていた葡萄をすべてロバが食べてしまったのを知って笑い死にするとか、そういうことができるわけである。つまり、わたしたちの生とは、「存在」という限界を越えること――なのかもしれない。