ルノワール『大いなる幻影』

cinema
2001.05.10

わたしはルノワール作品はこれが最初の鑑賞であり、数ある作品群から帰納的に導きうるルノワール映画を総じて語る資格をもち合わせていないことを銘記しておく。

戦中の日本では、この映画は反戦的、反国家的であるという理由で上映を禁止されているし、ナチス占領下のフランスではこの作品のおかげでルノワールはブラックリストに載せられ、身の危険を感じた彼はアメリカに亡命した、というような背景をもつ作品である。また、この作品は彼の作品群のなかでも例外的に社会的な視点を持っているといわれるものの、それでもおおむね彼の人間主義的な側面がこの作品にも現われているといった評価が主流のようである。

だが、果たして本当にそうだろうか? この映画は、タイトルにもあるように、大いなる幻影を描いたきわめて映画的な作品である。この幻影を抱かせてくれたのは、あくまで、皮肉にも戦争なのだということを、この映画が訴えているように思えてならないし、そうであるなら、日本において「反戦的」という理由から上映を禁止されたことは、まことに滑稽な事態というほかない。というのも、たとえば、貴族階級出身のボアルデューと、労働者階級のマレシャルは、戦争なくしてはけっして友情を育むこともなかっただろうし、出会うことすらなかっただろう。ユダヤ人ローゼンシュタールとの友情にしてもそうであるし、脱走の途中で出会う、フランスとの戦争によって夫を殺されたドイツ人の未亡人との束の間の恋愛すらなかったことだろう。ルノワールは、国境を越えんとするマレシャルとローゼンシュタールの二人の脱走者に言わせた最期の台詞も含めて、そのことをそこかしこで匂わせているし、それに気づかないでいるのは無理な話である。つまるところ、国境や階級を超えた友情も愛も、幻影に過ぎないということでしかないし、その幻影を仮にも信じさせてくれているのはあくまでも戦争という事態だからである。この作品のうちで真に戦争抜きで通じ合っていたのは、もはや時代錯誤の古い貴族階級出身のフランス兵ボアルデューとドイツの収容所所長シュトロハイムだけであり、前者は後者によって皮肉にも銃で撃たれて死に、後者は戦争でボロボロになった身体を抱えてなお生きるのである。彼らを真に通じ合わせていたのは、彼らが戦争を抜きにしても共通の土台をもち合わせていたからである。アーレントが指摘するまでもなく、フランスの貴族階級はゲルマン人(フランク族)であり、当然、ドイツ貴族のシュトロハイムとは血を同じくする民族である。だが、このような視点だけをもってルノワールを評価することはできそうもない。なぜなら、それも実際には少なくない考え方だからである。それが、映画というイリュージョン(幻影)によって表現されている、という二重性をそこに加えたとしてもである。

この映画を評価するとするなら、やはり、蓮實重彦氏が『映画誘惑のエクリチュール』で示しているような催淫性にこそあると言わねばならないし、それをもっとも象徴しているのは、蓮實氏の指摘するように横笛である。催淫性というよりも、卑猥さである。ここには圧倒的な自由さがあふれている。ボアルデューが、マレシャルの脱走のために命を捨ててひとり、捕虜収容所の城壁に腰掛け横笛をふき鳴らすシーン、これはもはや説明のしようのない、また説明しても下世話なまでに卑猥であるとしか言いようのない不可解さで満ちている。彼はけっして巨匠ではない。だが、自由である。この映画が幕を迎えたとき、わたしは、先のアイロニカルな視点も含めて、これがおそらくルノワールなのだろう、という気がして、暗い映画館で笑いをこらえていたのだった。

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監督・脚本・台詞:ジャン・ルノワール
脚本・台詞:シャルル・スパーク
音楽:ジョゼフ・コスマ
撮影:クリスチャン・マトラ
出演:ジャン・ギャバン(マレシャル中尉)、ピエール・フレネー(ボアルデュー大尉)、エーリヒ・フォン・シュトロハイム(ラウフェンシュタイン)、ディタ・パルロ(エルザ)、マルセル・ダリオ(ローゼンシュタール)
1937年/フランス/114分/白黒/スタンダード

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