パックス・ロマーナ(pax Romana:ローマの平和)と呼ばれる時代がある。これはもちろん、近代の歴史家による造語ではない。同時代に語られていたものである。大プリニウスは言っている。
ローマの平和の計り知れぬ尊厳によって、多数の国、民族が相互に知り合いとなって、また山々とその動物、植物の知識をももつことができる。この神の恩恵が永遠に続くことを祈りたい。ローマ人が人類に与えたこの贈物は新しい形の光明にほかならない。(Plinius, historia naturalis XXVII. 1. 3)
注意すべきは、大プリニウスが博物学者だったことである。彼の研究にとっては、地中海世界の覇者たらんとするローマ帝国のイデオロギーが都合が良かった。「ローマの平和」は確実に彼の研究領域を広げたからだ。したがって、当然ながら額面どおりに受けとるわけにはいかない。また、同様に17世紀英国の歴史家エドワード・ギボンは、その著作、『ローマ帝国衰亡史』で以下のように述べている。
かりにもし世界史にあって、もっとも人類が幸福であり、また繁栄した時期とはいつか、という選定を求められるならば、おそらくなんの躊躇もなく、ドミティアヌス帝の死からコンモドゥス帝の即位までに至るこの一時期をあげるのではなかろうか。」(中野好夫訳、筑摩書房)
注釈しておけば、「ドミティアヌス帝の死からコンモドゥス帝の即位まで」の一時期とは、いわゆる“五賢帝”の時代(96-180)を指している。もちろん、このギボンによるいささかヨーロッパ中心的な文章自体も、ヨーロッパの覇権が確立していく時代とパラレルなのだが、われわれの目的は、ヨーロッパ中心主義や帝政時代のローマ中心主義をたんに批判することではない。われわれは、いまや、この「平和」や「幸福」という自己中心的な領域の外部で、いかに戦争や搾取が繰り広げられてきたかを想像することのできる知性を十二分にもちあわせているはずである。われわれは、ローマ帝国の国境で、なぜ蛮族が紛争を繰り返したかを想像することができるはずであるし、ストア哲学者たちが警告を繰り返したにもかかわらず、一部のローマ人が「平和」の裏にあるものに対してみてみぬ振りをしつづけたことも容易に想像することができる。
だが、それらをたんに批判することは、歴史からなにも学ばないことと同じである。われわれは、そこにもっと大きなプロブレマティクをみなければならない。彼らは、そのような批判がありうることを、十分に理解していたはずである。したがって、なぜ、ローマ人は「ローマの平和」という概念が抱える矛盾を知っていたにもかかわらず、それを享受したのか、という問いを発するべきなのだ。ひとまず、本稿では、“五賢帝”という用語が、同時代に語られていたものではないことに注意を促したい。ギボンもすでにその著作でそのような表現を用いているし、かのモンテスキューも、『ローマ人盛衰原因論』において、五人の皇帝を同列に名君として扱っている。しかし、ローマ帝国最大の版図を実現したトラヤヌスはともかく、ハドリアヌスはとりわけなかでも同時代的に評判が悪く、後世の評価とはほとんど正反対と言ってもよいほどである(1)。大衆からも、元老院議員からも、悪評を受けていたのである。後を継いだアントニヌス=ピウスの説得がなければ、彼は元老院から暴君の烙印をすら受けかねないほどだったのである(2)。また、キリスト教徒の側からは、十名の迫害皇帝として、ネロやドミティアヌスと並んで、トラヤヌスやアントニヌス=ピウスがあげられていたことも事実であるし、また古代末期のアウグスティヌスも、十名に限るという伝統には懐疑的ながら、そこにあげられた人物の評価には何の疑問も差し挟んではいない。
したがって、「ローマの平和」と“五賢帝”をすぐさま直結させるわけにはいかないということである。「平和」の原因をたんに“賢帝”に結びつけるわけにはいかないし、また、「平和」という語が隠蔽しているものを考えても、ことは単純ではないのである。
五賢帝は、ローマ帝国の歴史の中ではたしかに例外的な皇帝である。というのも、暗殺や戦死などの不慮の死によらずに、みなその寿命をまっとうしているからであり、晩年に即位したネルヴァ以外は、比較的長い治世がつづいているからである。そのような治世が五人連続でつづいたということを考えあわせれば、さらにその希少性は増そう。その意味では、原因とみなすことはさしおくとしても、彼らをして、「ローマの平和」を象徴する人物と目することは誤りではない。ただし、“五賢帝”は、それ自体が積極的な定義をもっているわけではなく、あくまで、結果からみて消極的にしか定義されないものであるということは理解されるはずである。アーノルド・トインビーは、ギボンを批判して二世紀のローマの繁栄を「晩秋の小春日和(インディアン・サマー)」と呼んだが、決定的な批判たりえているかどうかは別にして、それは正しいのである。
自らをアレクサンダー大王になぞらえる野心を持っていたトラヤヌスはともかく、ハドリアヌス以降の皇帝は、無限の拡張政策の無理を知っていた。なかでも、哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、ローマ帝国という概念がいかに自分の哲学と相容れないものをもっているかを的確に理解していた。共和政時代末期のキケロや、あるいはアウグスティヌスが次のような逸話を伝えている。アレクサンダー大王が海賊を捕らえ、なぜ海を荒らすのかを問うと、海賊はこう答えたという。「大王が全世界を荒らすのと同じだ。わたしは小さな船で行なうから海賊と呼ばれ、あなたは大艦隊で行なうから帝王と呼ばれる」と。マルクス・アウレリウスもまた、このような逸話に似たたとえ話を、その著作、『自省録』のなかで自嘲気味に語っている。
蜘蛛は蝿を捕まえて得意になる。ある人は子兎を、ある人は網で鰯を、ある人は猪を、ある人は熊を、ある人はサルマタイ人を捕まえて得意になる。ところでこれらの人びとの(行動の)原理を検討して見れば、みな盗人ではないか。(9, 10. 神谷美恵子訳、岩波書店)
サルマタイ人とは、もちろん、国境付近の紛争を鎮圧すべく(マルコマンニ戦争)彼が戦った相手であり、また、それを誇る者とは、彼本人である。もはや、“五賢帝”の時代に、ローマ帝国が原理的にもっていた矛盾は明らかになりつつあったのである。そして、その矛盾は、おそらく、ハドリアヌス帝がトラヤヌス帝の拡張政策を放棄したときに始まったと言ってよい。カエサルの時代に始まった“ローマ帝国”なる概念は、膨張しつづけることでしか、その倫理的正当性を保ち得ないのである。なぜなら、カエサル、オクタヴィアヌス(アウグストゥス)親子がそもそも都市国家(ポリス)を基盤とする共和政を打ち捨てたのは、膨張するローマを肯定せんがためであったからである。
アテネの議会制民主政の失敗を観察していたローマは、議会を利用しながらも、そこにある種の階級的な秩序――権威(アウクトリタス)――を意図的に導入することを忘れなかった。全市民が平等であったアテネにおいては、必然的に、無用な混乱を回避するためにその市民権が与えられる人間が限定されることになったが(アテネの最盛期ですら、その人口は3万を越えない)、もともとそのような限定的な議会制度のゆえに、ローマは、独特の高度な概念である「権威」が保持されるかぎりにおいて、閉鎖的なアテネと異なり、市民権を拡大することが可能だった。その「権威」を代表していたのが、コンスルなどの役職経験者で構成される元老院である。元老院における議決は法的に強制されるわけではなく、あくまで、市民あるいは議会が自発的に従うべきものであり、それを促すのが、かの「権威」なのである。この「権威」をもつとされたのが元老院であり、あるいはパトレス(patres父たち)であった(3)。この語は、今日のラテン語圏の“貴族”の語源であるが、当時から血統貴族を意味したわけではない。たんに普通名詞「父pater」の複数形であり、当然ながら、一般市民の「父たち」にも同じ語が使われていることがそのことを傍証しよう。あくまで、共同体に何らかの貢献を果たした者が父たちと呼ばれ、「権威」を獲得したのである(4)。その意味では、モンテスキューが述べている、ローマの「絶えず続き、常に激烈な戦争状態(5)」という表現は、いささか過剰で誤解を与える可能性はないではないが、全体としては正しいと思われる。市民権の拡大は、常時の移民によるばかりではなく、戦争が端的にその役目を果たしたからである。つまり、移民や商工業者などからなる一般市民(plebs)が「権威」を獲得してパトレスとなるためには、戦争がもっとも効果的であると同時に、戦争による市民権の拡大が一般市民を再備給する役割をも果たしたのである。もちろん、一見して素朴に見えるこの制度は高度ではあるが脆弱である。「権威」がもたらした拡大原理によるローマの拡大によって、この「権威」は逆接的に無視されるようになった。「権威」をもつパトレス(父たち)の拡大よりも、それをもたない一般市民の拡大の方が圧倒的だったからである。パトレスを増やす試みが幾度となくなされ、プレブスを元老院に直接吸収するシステムを作りあげることで補完しようとしたが、それでも膨張のスピードには追いつかなかった。なにより、ローマの拡大が、都市国家的な文脈で語ることのできる地中海世界を超越してしまったことが、それに拍車をかけた(カエサルのガリア遠征はそうした意味をもつ)。こうして、共和政下のローマに混沌が訪れたのである。
カエサルは、この状況を、自らが《王》として振舞うことによって解消しようとする(6)。「権威」もろとも議会主義を捨て去ろうとしたのである。もちろん、彼の野心がそうさせたともいえるが、しかし、一方では、当時のローマの状況が彼をしてそうさせたともいえる。また、彼の政治的成功は、ガリア遠征と、そこでの市民権付与を基盤としていた以上、それを否定する元老院と同調することは、自らの立身の根拠を否定することと同じだったからでもある。しかし、彼の試みは、失敗する。その点、オクタヴィアヌスのやり方はもっと巧みだった。彼は、一方では自分がカエサルの息子であることをほのめかし、ときには表に出しながらも、むしろ、元老院の「権威」を徹底して強調し、それを代表する形で、ローマの混沌を終息させようとする。プリンキパトゥス(元首政)である。オクタヴィアヌス=アウグストゥスが共和政を捨て元首政を選択したのは、けっして王政を選択することなく、都市国家的な世界を超えて多様な民族をそのうちに吸収しつづけることによって膨張したローマを支える(肯定する)べくなされたものであった。したがって、市民権を拡大し、属州を増やしつづけることでしかその倫理的根拠を保証できないローマ帝国がそれを放棄したとき、その役目はほぼ終わった。以後、帝国の国境警備のための軍隊の駐屯地を中心に同心円状に広がる領域において、ローマ市民権を得ることなくたんに搾取されるような存在が生じてしまうことになったのである。
つまり、ハドリアヌス帝の時代に拡張政策を放棄したというそのこと自体が、ローマ帝国をして衰退の段階に入らしめたのである。前帝トラヤヌスが獲得した属州の放棄は、たしかに、ローマの大衆の人気を得るという点ではあまり好ましくない政策であろうが、ハドリアヌス帝が、放棄したものは、属州と大衆の人気だけではなかったのである。ある意味では、彼に悪評を浴びせた大衆や元老院議員は、そのことを直観していたと言ってもいい。いくら彼が統治に類稀な業績を残したとしても、拡張政策の放棄がもたらす計り知れない重大さを無視することはできなかった。晩年の不明瞭な後継者選びや、彼が関わったかどうかもはっきりしない元老院議員処刑だけで、その間の業績を無視して、「記憶抹消」の刑に処される「暴君」のレッテルを貼るに足るとはとうてい思えないのである。だが、もちろんハドリアヌス帝の選択は、不可避的なものである。都市国家的な文脈とはもっとも相容れないものをもつ、東方君主政治の拠点メソポタミア=バビロニアを前帝トラヤヌスが属州としたとき、そのことは明らかとなった。トラヤヌス帝の軍隊に従軍し、シリアで帝位を継いだ、“もっとも迅速に旅行した者”ハドリアヌスはそのことを瞬時に理解した。あらゆるものを吸収して拡大するような人為的なシステムは存在しない。どこかで、その無方向的な膨張を止めなければならない。ローマ帝国は、膨張しなければならないし、また、膨張してはならないのである。ローマ帝国において、ヘリオガバルスや『サテュリコン』などに代表される贅の限りを尽くしたローマ人貴族のイメージと、セネカや皇帝マルクス・アクレリウスに代表されるストア派の禁欲的なイメージが同居していることは偶然ではない。これらの不調和を調和させる原理がそこにあったのは間違いなく、また、当時、誰もがそれを模索していたのである(その意味では、父たちの「権威」がもつ脱コード化と超コード化という二つの側面を融合させたオクタヴィアヌス=アウグストゥスはひとつの解答だったと言える)。今日では“五賢帝”に名を連ねるほどのハドリアヌスの、当時の極端な悪評との差異は、そのことを物語っているように思われる。同時代の人々と近代の歴史家による彼の評価の差異は、彼が直面した二律背反そのものである。近代人にとっては紛れもなく五賢帝のひとりであるハドリアヌスは、はたして名君か暴君か。それは、超歴史的できわめて厄介な問いなのである。
以後、ローマはディオクレティアヌスの時代に専制君主制化し、ついでキリスト教が排他的に国教化された。もはや、その広大で多様な領域を統治する倫理的根拠は皆無に等しかった。
【註】
- (1) 南川高志氏による『ローマ五賢帝』(1998年、講談社)も近代以降と同時代におけるハドリアヌス帝の評価の違いに注目した評価すべき書物である。ただし、その理由として、結局は、四人の元老院議員の処刑や、帝位継承をめぐっての元老院議員との見解の不一致があったことを挙げているが、われわれは、元老院との個人的な権力闘争に還元してしまうその解答――それは今日風にいえば「政局」中心主義的回答である――だけでは満足しないだろう。
- (2) 元老院によって「暴君」と一度認定されると、その者は「共同体の敵」とみなされ、「記憶抹消」の刑に処せられた。記憶抹消の刑に処せられた皇帝のその統治期間の行為はすべて無効とされた。
- (3) 多くの史書に見られるように、auctoritas patresあるいはauctoritas senatusという語が併用されている。
- (4) ローマの議会全体を見わたすなら、「権威」を上位の市民権と考えることもできる。ただし、「権威」は、リヴィウスやキケロが何度も言っているように、徹頭徹尾実践的なものであることを忘れてはならない。
- (5) モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』(田中治男・栗田伸子訳、岩波書店)、19頁。戦利品が共有物とされ、平等に兵士に分配されたことが、この絶えざる戦争状態を強いる駆動原理とされている。だが、モンテスキューは、いかにしてローマ人が戦利品を共有物とみなすような規律を形成したのかについて、宗教心による以外に説明していない。たしかに、父が父たることを実践することで帯びる「権威」への自発的な尊敬は広い意味では宗教心には違いないが、それに対する分析は欠けていると言わざるをえない。われわれの時代は、少なくとも、フロイトとドゥルーズ&ガタリの業績を用いることができる。
- (6) カエサルによる変革の失敗の原因として、彼が《王》として振舞う一方で、《祖国の父》と呼ばれて元老院の「権威」を代表したキケロがいたことをあげなければならない。キケロと結んだカエサルの義理の息子オクタヴィアヌス=アウグストゥスが行なったことは、この分裂の統合であり、父たちの「権威」がもっていた脱コード化と超コード化の流れを利用しつつ断ち切ることであった。二人の義父を持つオクタヴィアヌス=アウグストゥスという二重人格者。彼はオイディプスの仮面を自在に着脱する。