ヴァレリー・アファナシエフ(一)

music
2001.10.30

彼は颯爽と登場した。そして、低い椅子に座り、彼が鍵盤に向かうやいなや、彼の周りにできたわずかな空気の隙間に、静寂のヴェールが浸入する。聴衆は一気に緊張の度を高める。彼は、おもむろにかなり高い位置に両手をあげ、その手を、鍵盤に、ではなく、譜面台の上に置く。聴衆は、一瞬、ほんの少しだけ、気を緩める。そして、不意に音が横溢する。……

彼の、巨大な手はちょっと見物である。グールドもそうだが、彼も、ピアノ教師がみたらこぞって叱るだろうほどに、手首の位置が低い。いや、グールドとの比較はすまい。かなり低い位置に据えられた手首から先は、二つの巨大な円盤、というよりは二つの平たい毛箒の態[*]をなしており、彼は、その指先にまで、命令を与えず、ただその指先が動くに任せている。彼の命令を与えているのは手首のスナップまでである。本当にまるで鍵盤の塵を払うように軽やかに、見ようによっては散漫に動く指先は、そうこうしているうちにピアノと融合してしまう。彼は、手首から先を、ピアノの支配下に譲ってしまうのである。最初はあるべきタイミングで音が始まらず、またあるべきタイミングで音の持続が切断されない散漫な印象を与える音の群れが、次第にそれこそがあるべきタイミングであったことを主張し始める。そこではもはやピアノの鍵盤が彼を動かしているのである。彼に連続する音の強弱velocityや持続sustainの決定権はない。彼の十本の指が88個の鍵盤と接続するのではなく、88個の鍵盤自身が、彼の十本の指と接続するのである。ここでは、アファナシエフという名の「主体」はまさに作品に従属subjectする機能としてのみある演奏機械と化している。それゆえ、問題は休符である。指先がもはやピアノと融合してしまっている以上、彼は、鍵盤から指を離すために、大きく腕を振り払わねばならないのだ。また、必然的な帰結なのだが、音は、一見して、指が鍵盤の上を離れた後も持続することになる(そこでは実は巧みにサスティン・ペダルが用いられている)。ピアノが自身の領分を越えてアファナシエフを捕えているからだ。彼は幾度となく、両の腕を鍵盤から遠ざけてしまうだろう。そのとき、演奏機械のスイッチが切られてしまったかのように、彼の動きが停止する。休符の完璧な実践としての、永遠の休符の演奏としての、沈黙が訪れるだろう。真にピアノ自身が奏でると言いうる、ただひとつの、そしてすべての横溢する音と、その正反対にある完璧な沈黙。だが、この両者の絶えざる反復(もちろん、差異を含んだそれであり、反復が始まるたびにわれわれは別の強度をもった音色を聴くことになるだろう。付記しておけば、ここでもペダルの役割は通常のピアニストよりもはるかに大きい)だけが、彼の音楽というわけではない。このアファナシエフという名の主体は一筋縄では行かないのだ。彼はときおり叛乱を起こす。自身の領分を越えて、彼の身体に侵入してくるピアノを突き破るような、フォルティッシモ。速度と強度を獲得した、類稀なる超越論的クリティークとしてのフォルティッシモ。それが、あの特異な手首から先が可能にするスナップだけで奏でられているのを想起すれば、ほとんど奇跡的なことであると言わざるをえない。先に述べたピアノ自体が奏でる音の横溢と完璧な沈黙の反復のあいだに、突発的に、しかも瞬間的に、このフォルティッシモが挿入される。そのときだけ、彼の指がピアノを弾いているのである。

聴衆は、これらの三つの音を聴くだろう。

京都コンサートホール・アンサンブル・ムラタで起こった、特記すべき今日の出来事。

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