世界はいつまでたっても進歩しないし、変わっているように見えるが、何も変わっていない。相も変わらず奪いあい、騙しあい、殺しあっている。そればかりか、昨今の環境問題をみるかぎり、あるいは政治問題をみるかぎり、かつてみられた、あるいはそう思い込んでいた進歩とは、むしろ変わらない現状を覆い隠す手の込んだ幻想であったようにすら感じられる。……
こういうシニカルな認識は、このところの現実的諸問題がわたしに負わせた個人的な実感だが、しかし、この実感は、おそらくどこか間違っている。一方で「世界は進歩しない」と嘆いてみせながら、しかし、他方で、にもかかわらずわたしは思考し、物を書いている。嘆きという、ある意味で非生産的な行為と、物を書くという生産的な行為とが、まるで両立するかのように映るその裏には、なにか重大な《矛盾》が含まれていてしかるべきである。ここで言われている《世界》には、まちがいなく《わたし》が含まれているのであり、したがって、進歩もせず変わりもしない世界に含まれ、それに寄与している《わたし》は、どうして、思考している・物を書いている、などと言えるのだろうか。いくらわたし個人の取るに足らないものであろうと、思考がそもそも生産的である、ということを示すかぎりにおいて、それは《世界》を変えずにはおかないはずなのだから。
だから、わたしは、そのようなことを考えている《わたし》を疑う。《世界》が何も変わらないのだとしたら、誰も思考などしないだろうし、そして誰も物を書こうなどとは思わないだろう。《世界》がよりよく変わるということがありうるからこそ、人は思考するのだし、また、人は思考するからこそ、《世界》はよりよく変わるのだ。だから、「世界は何も進歩しない」という思考そのものが、間違っている。どこかで間違えたから、そのような結論に達したのだ。つまり、おそらく事実はこうだ。少なからず、誰かが思考した、と言いうるかぎりにおいて、「それでも、《世界》は、よくなっている」。……
いま、こんなことを言うのは、とても骨が折れることだ。なにか、冗談を言っているのではないかとさえ思う。「世界はよくなっている」だって? この期におよんで、そんなことが言っていられるなんて、なんて君は幸せな人間だろう!! 事態はもっと深刻なんだ。
そう。わたしもそれに同意する。事態は深刻だ。ハーバーマスのように暢気なのはごめんだ。すべての物が重力を持っている、というのと同じくらいに彼は暢気である。しかしだからといって、そうした深刻さにすべてのひとが同意してくれるとは、どうしても思われない。おそらく、ここでいう《事態の深刻さ》とは、完全にわたし個人に属する《事態の深刻さ》なのであって、たぶん、この《事態》をいまの段階で一般化して考えることはできない。要するに、《事態の深刻さ》を前提に議論を進めることはできない。
だが、わたしはそれでも言うだろう。「世界はよくなっている」。そうでも言わなければ、やっていけない、というのは本当なのだ。世界はよくもなっていなければ、悪くもなっていない、などと言えるとすれば、それはおそらく、生と死とを混同している。生も死も、同じに扱う歴史ならば、そうも言えるだろうが、現実はそうではない。「世界はよくなっている」という認識なしに物を語れる者などいない。
間違うのはわれわれである。世界ではない。それは当たり前のことである。だから、「世界がよくなっている」という、正しい認識をわれわれが持てないのだとすれば、せめてそうした認識が持てるように、世界をよりよくしようじゃないか。――こんなことを言っている、自分を笑う。なんとナイーヴな物言いなんだろう。別に知ったことではない。こんな言い方は嫌いだったし、今でも嫌いだ。軽々しく《世界》などという大げさな言葉を吐くべきではない、ということも、本当なのだ。それに、どうせ誤解されるに決まっている。「世界をよりよくしよう」などというのではない、もっと別の言い方があるはずだ。
ところで、最近は、藪睨みのサルトルがお気に入りである。世界・社会とは、《見る/見られる》の闘争である――いいじゃないか。わたしもそう思う。世界・社会とは、《見る/見られる》の闘争である。この闘いに一方的な勝利はない。自分が見ているのか、見られているのか、わかる者はいない。コメディアンと同じで、彼がわれわれを笑わせるとき、それは同時に、彼がわれわれから笑われているのである。敗北と勝利とが、つねに同時に、しかし、区別されながら、お互いに訪れる、というわけだ。量子力学のような話――そういえば、彼は『嘔吐』でそれに言及していた。たしかに、ユダヤ人はいない、ジュネはいない、というのは、いささか短絡的に響くのだが。……
だが、まあ、たとえ弁証法に似通ってくるとしても、敢えてそれも認めてみようじゃないか。ユダヤ人はいない。イスラム人はいない。見知らぬ彼のことをユダヤ人だと思うイスラム人がいるのであり、また、他方に、見知らぬ彼のことをイスラム人だと思うユダヤ人がいる。――つまり、サルトルは、ただ、《人間》がいる(人間という場所がある)、と言っているのであり、しかも、それだけではだめで――つまりそれは、《無》なのであって、だからこそ、《実存》せねばならない(歴史に参加せよ)と言うのだろう。そうした解決法を捨て去ってしまうのはまだ早い。もう少し深読みしてあげていいんじゃないか。……
人間!
むずかしい言葉である。これは、悪い意味で和辻哲郎=ヘーゲル流の合言葉(シボレート)だ。オイディプスは怪物(スフィンクス)のかけた謎を解き、怪物を倒して、《人間》になった。オイディプスはおかげで父殺しと母との同衾という罪を負い、太陽神アポロンの支配から逃れようと、思い余って目を潰してしまった。彼は、《見る/見られる》という闘争・意味するものと意味されるものとの闘争から、血の涙と一緒にこぼれた高笑いとともに離脱してしまった。……
怪物か、人間か、それとも、盲目かつ流浪の超人か。
プレモダンか、モダンか、それとも、ポストモダンか。
国家か、ネーションか、それとも、資本主義か。
怪物よりも《人間》の方がよいとして、しかし、その《人間》が、父殺しと母との同衾に思い悩むものなのだとすれば、そこにとどまっていてよいわけがなく、だからといって、目を潰し、意味するものと意味されるものとの闘争――記号論から離脱すればいいというわけでもない。「記号論を越えて」と言った浅田彰は、しかし、けっして目を塞いでしまおうとは考えていなかったはずだ。あの眼鏡は、伊達ではない。あるいはこうも言っていい。目を潰すということは、けっして、何も見ないということではない、と。オイディプスは、別の何かを見ようとしたのであり、目を潰したオイディプスの笑いを、われわれは、おそらく、そう解釈すべきなのだ。つまり、間違えたのは、オイディプスではなくて、われわれである。わたしは言おう、『オイディプス王』は、ハッピー・エンドかもしれない、と。
《アンチ・オイディプス》。アンチ・オイディプスとは、ドゥルーズとガタリも、よく言ったものだ。怪物と、人間と、超人とが織り成す、この呪われた三角形から抜け出すこと、これは、古代ギリシア以来、われわれに課せられた、相も変わらず背に課せられた重荷なのだ。たしかに、何も変わっていない。絶望的に、変わっていない。それでもわたしは言うだろう、「世界は、よくなっている」。ソフォクレスから、サルトルへ、サルトルから、ドゥルーズとガタリへ。彼らの間に確実に存在している《進化》evolutionを、《わたし》は見てとっている。