平行線の定理が世界を論じる際に必要ないことに勘付いた近代の科学者たちは、そのとき、すでにその手に絵筆を握っていた。世界は、線分でできているのではない。色彩によって実現されているのだ。彼らはそのことに気づいた。だが、今日、別種の平行線の定理が復活している。すなわち、カント主義の主張する現象-物自体の一対である。これらは、弁証法的に統合されることさえなく、ついに平行線を描き上げる。
とはいえ、私見によるなら、この平行線を弁証法的に統合したりしなかったり、つまりは脱構築したりしなかったりするということは、じつは、まったく問題ではなかった。たんに、この平行線は、必要ないのである。
近代の画家にとって、絵画とは、ひとつの世界論だった。世界とは、こうなっている。これが、彼らの絵画であった。もちろん、それは美でもあるだろう。真理でもあるだろう。だが、なにより、《わたし》が語るというそのことにおいて、絵画とは、一個の世界論なのである。
セザンヌは「自然を円筒形、球形、円錐形として扱いなさい」といった。それは、世界がこれらの図形でできているという意味である。彼が自然をそのように認識するということではない。画家にとって、色彩は言葉であり、絵筆はそれを操る咽喉であり気息である。そしてもっと重要なことは、色彩は、言葉であると同時に、世界そのものである、ということである。
ある小説家―もったいぶることはない、志賀直哉にとって、言葉とはリズムであった。そのことは、同時に、世界そのものが、リズムを持っているということである。すなわち、リズムであるような言葉とは、世界そのもののことである。言葉は、世界が奏でているリズムによりそい、それとひとつになる。自然にできた木立は、適当な間隔で、すなわちリズムを刻んでいる。空に群がる鳥たちは、おたがいに適当な距離を保ちながら、すなわちリズムを空に刻印している。雲もまたそうである。波もまたそうである。ついには人間もまたそうである。ひるがえって、人間と切り離されたものとして人間の言葉を眺める時、そこにリズムがあることは、誰もが思い知ることだろう。言葉もまた、言葉でできているのである。小説家は、リズムを刻む。それも、世界そのものであるようなリズムを刻む。近代のある種の小説家にとって、小説とは、ひとつの世界論でなければならなかった。
わたしが、わたしに語らせるのではない。世界は、いつもわたしたちに世界を語らせている。鳥が囀るように、わたしたちは世界を語る。それは、わたしがわたしに語らせるということにほかならない。そうした非‐思考を超えて、思考そのものであるためには、言い換えれば、言葉が、世界論であるためには、なによりわたしが語るのでなければならない。それが、絵を描くということであり、小説を書くということである。則天去私を語る必要はどこにもない。