体罰について

criticism
2013.02.02

体罰の問題は深いところで言語の問題とつながっている。わたしはさいわいにして、いまのところ経験がないが、おそらく教師の暴力が一番発生しやすいのは、子供がまったく「言うことをきかない」場合であろうと思う。そのときに、たとえば拳骨が禁じられていたとしたら、教師にはどのような手段があるだろうか。

ある種の行為を言葉によって思いとどまらせることができないときに、肉体的な力に頼らずして、どのようなことが教師には可能なのだろうか。馬には鞭がふるわれる。言葉が「通じる」人間にはその必要はない。しかしいったい、言葉の「通じない」子供たちに、どうすれば言葉の力を信じさせることができるのだろうか。

言葉が現実に深く食い込むということを身を持って教えることができなければ、言葉の力はいつまでたっても信用されないだろう。言葉が出来事であるということを教え、そして学ぶ、ということは、ある種の飛躍を必要とする。おそらくその飛躍を、子供たちは、文字通り雛がはじめて空を飛ぶように、実現する。

たとえば醜い教師がいて、彼に露骨な悪口が注がれる。教師が顔色一つ変えなかったとしたら、その悪口は現実をなにひとつ変えず、したがって言葉の力に対する不信を、子供たちは学ぶかもしれない。同級生に「死ね」という水準の低い悪口を浴びせていたとして、そこで教師が怒りと鉄拳による制裁とを選んだとしたら、今度は反対に、言葉が力をもつことを知るかもしれない。

ある言葉が他者を傷つけることがあるということを、身を持って知ることがあったときに、ひとは言葉の力を知る。真に価値をもつ言葉と暴力は、そのような関係にあり、単純に言葉の世界と暴力の世界とに、世界はわかれてはいないのである。

言葉がいかに現実に深く食い込んでいるかを知ることがないなら、ひとは暴力をやめることはできない。そしてひとたびそうした観点を失ってしまえば、また暴力が必要になってしまう。暴力に対する高次の暴力=法が要請される結果にしかならない

だから、教師による体罰を禁じるのか、禁じないのか、という法的な二者択一を議論するのはやめて、こういう問いかけをしてみよう。子供と大人がつくる世界のなかに、いかにすれば言葉の世界を広げていくことができるのか。その観点にしたがう場合にのみ、すこしの暴力が振るわれることは許される。言葉の世界を諦めたところにある暴力ではなく、言葉の世界を拡張するためにふるわれる暴力、ということである。

近年、言葉の限界をことさらに指摘することが流行している。言葉は表象にすぎず、現実とは違う、というわけだ。この種の思想は、一見大人びてはいても、未熟なものである。しかも未熟な子供にだけ生じるのではなく、思春期や、あるいは大人になってからも、たやすく生じうる。そしてひとたびそうした感覚に陥ってしまえば、言葉によってそれを諭すのはとても困難になる。なにしろ言葉は表象にすぎないと思われているからである。

しかし反面、教師の暴力を嫌悪する傾向もまたある。教師はいったい、いかにしたらいいのか。かくして教師は、教育における二つの力、言葉と暴力とを奪われて、文字通り手も足も出ないところに追い込まれている。

たとえばわれわれは、暴力革命によってこの世界を達成した。あの戦争があったからこそ、われわれは平和を実現した。このことの歴史的な意味について、歴史家である自分はずっと頭を悩ませてきた。教育にもそうした要素はすくなからずあるはずだと思う。問いの中心を少しだけずらす勇気を、どうかもってくれたら。

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