円山応挙展

review
2003.10.10

先日、大阪市立美術館で開催中の円山応挙展を訪れる機会を得た。

わたしには、とくに日本画の知識はない。しかし、画聖といえば、普通は応挙を指したはずだし、また、同時代――つまり化政文化時代の代表的作家である歌麿や写楽、北斎らの浮世絵と比較しても、日本画のメインストリームのひとつが応挙(あるいは彼を師とした呉春の立てた四条派)にあることくらいは、その作品を一見すればすぐにわかる。むろん、ここでいうメインストリームの意味には注意が必要であろう。もしそれが、今日の日本の美術における漫画やデザイン画の地位を指すのであれば、当然、メインストリームを担っていたのは浮世絵ということになる。紛れもなく、今日の絵画のメインストリームは、画家ではなく、漫画家やデザイナーが担っているのであって、そうした意味では、浮世絵が、当時のメインストリームであった可能性を少しも否定しない。わたしが言っているのは、あえていえば大文字の絵画芸術におけるメインストリームのことである。絵画の絵画性などといった形而上学に背を向けてキッチュに徹した浮世絵の価値は、あくまで、批判的なもの、言い換えれば、二次的なもの(本当は、あらゆる芸術が《模倣[ミメーシス]》なのだとすれば、三次的だと言うべきだろう)でしかないことは言うまでもない。その意味で、あくまで、一次的(ミメーシスの観点から言えば二次的)なものとしての日本の絵画芸術のコアのひとつを円山応挙に確認しておくことは、最低限の前提だし、また今日の文脈においてはとりわけ重要な(といってもけっして不可欠なわけではないが)作業であるように思われる。

前置きが長くなったが、そのような意味で言えば、応挙の写生画が、西洋のそれも含めて多様な遠近法が取り入れられた圧倒的な写実性を備えていたとしても、それは画家として当然のことである。だから、たとえば、彼の微に入り細を穿つ、実証的でまったく隙のない『牡丹孔雀図』を観たとしても、そこには何の感動もない。われわれがそこで感じるのは、恐らく、彼の絵画というよりも、孔雀という奇怪な生物そのものへの驚きである。あるいは同じことだが、彼のきわめて統計的で実証的な『人物正写惣本』にあるのは、当時の人々の人物を見る視点の異質さについての驚きであって(統計的な資料の重要性は、つねに、統計された対象ではなくて、統計を行う基準そのもの――あるいは、それを統計的なものとみなす同時代の認識論的布置――にこそある)、けっして、応挙の絵画そのものへの驚きではない。(個々の人物を対象として描かれた『神州和尚図』などに見られるリアリズムと、統計を駆使した『人物正写惣本』を見比べて思うのは、いかに、科学的と称される統計が当てにならないか、また統計の真の価値が、統計を行う当の本人の無意識的な偏見、あるいはその政治性を垣間見られることにこそある、ということだろう。)

もし、フッサール的な言い方が許されるなら、そうした絵画は、つねにポジティヴなもの、すなわち現象的なものでしかないし、あくまで、応挙にとってはビジネスの域を超えないものだ。彼の真骨頂は、誰もが承知しているように、『雪松図』や『雨竹風竹図』、『保津川図』や『雲龍図』、あるいはトリックであふれた大常寺の襖絵の数々にこそある。言うなれば、応挙は、ここにおいて、ネガ、すなわちけっして見えないもの(あるいは、本当はよく見えているはずのもの)を描いたのである。たとえば『保津川図』に見られる流水の表現は、カメラのシャッタースピードを限りなく遅くしたときに見える流水に非常に近い。応挙が紙にたき付けたのは、流水の力学的な運動そのものである。あるいは、ただ竹だけを描き、にもかかわらず、そこに雨や暴風を観る者にありありと想像させる『雨竹風竹図』の手法(これは、凍った水面を、その亀裂のみを描くことによって表現した『氷図』や、滝を数本の縦の水墨で表現して滝を昇る鯉を描いた『龍門鯉魚図』にも共通する)。最初から第三者としての観者の存在を前提し、なおかつ、彼らの想像力にその完成(ポジ)を委ねるという手法は、おそらく、近代日本画が目指した、(たんなる実証ではない)高次のリアリズム=客観性の先駆的表現と言っていいだろう。

さらにわれわれは、『雲龍図』を観ることになる。架空の神獣である二匹の巨大な龍が織り成す微細かつ雄大なリアリティに、思わず絶句する。画面狭しと舞い踊る龍の狭間をちぎれ舞う雲、岩に砕け散る大波、走り抜ける稲妻。

そして応挙は、自分の妻をモデルにしたと言われる美しい幽霊を描いた(周知のように、彼はリアリズムの巨匠であると同時に、日本絵画史上はじめて足のない幽霊を描いた画家でもある)。ポジティヴなものへの飽くなき追求が、彼をして、幽霊という、もっともネガティヴなものを描かしめたのである。彼の絵画にあるのは、ひとつの巨大な絵画史=モダニズムである。彼の絵画が、隙もそつも備えていないがゆえに逆説的に生じるある種の凡庸な効果については、ひとまず置こう(応挙はけっして吃ったりしない)。まずは、ここからはじめるべきなのだ。

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