出来事について

history
2007.01.25

歴史にとって出来事とはなにか……。この問いに答えるのは容易ではない。わたしはもはや、歴史にはうんざりしているのだが、それはこの装置が徹頭徹尾反復の装置だからである。たしかに、最初の反復には意味がある。意味……。いい加減勘弁して欲しいのだが、こうした言葉を不用意にも語らせてしまう、このおしゃべりな言語――この言い方はリダンダントだ、沈黙の言語などないのだから――にもうんざりである。

歴史にとって、出来事とはなにか……。この問いに対しては、とにかくこう答えておくのが一番無難である。文献(テクスト)と日夜にらめっこしている歴史家が出ることのできない、外側に拡がっている世界である、と。こうした絶望が真の絶望か否かはともかくとして、文献(テクスト)と出来事とのあいだには、たしかに断絶がある。デリダが言ったように、テクストには外部など存在しないのだ。カントの物自体を参照しておいてもよいだろう。いずれにしても、理想主義や脱構築のような、こうした目的論的思考(脱構築が「目的」をずらしつつ進むものだと言ったところであまり生産的ではない、この際、カント的な理想主義と同じものであることをさっさと認めてしまおう)は、物自体や痕跡という絶望的な思考にとっては、まことにこの上ない希望となる。デリダもカントも、だいたい同じものだ。世の中、いくらかまともに見えるイデオローグといえば、デリダ/カント主義者ばかりなのだが、それ以外でまともなのを探すとなると、ちょっと数えるのもむずかしくなる。

とはいえ、歴史とは別のやり方で出来事を考えることも許されている。世の中なんだって許されているからだ。脱構築だって、放棄してかまわない。わたしは、こう言ってしまおうと思う。出来事とは、言葉である、と。いや、大急ぎで付け加えねばならないが、ほとんどの言葉は、言葉でしかなく、デリダが言うように、痕跡でしかないし、物自体というか起源というか他者というか出来事というか、とにかくそうしたものにはたどりつけないし、たどりついていない。だが、要は考え方である。出来事とはなにか、と問う前に、言葉とはなにか、と問うことにしよう。いったいぜんたい、わたしたちにとって、言葉なしに出来事があるなどと言えるのだろうか? どういう口ならば、そんなことが言えるのか、教えて欲しいものだ。別に話し言葉だろうが書き言葉だろうが、どちらでもかまわない。ボディ・ランゲージだってあるが、いずれにしてもそうしたコミュニケーションなしに出来事など存在するだろうか? そう考えたとき、言葉と出来事の直接的なつながりを邪魔しているなにかが見えてくるはずだ。それはつまり、《意味》である。ブレイエがストア主義者の哲学をひもときつつ考察したように、意味は、かぎりなく出来事に似ているが、同じものではない。しかし、実際、よく似ている。わたしたちはしょっちゅう、出来事を意味に絡め取られている。あるいは、意味を出来事と取り違えている。

とにかく、もっと先へ進もう。デリダやカントは、もうたくさんだ。わたしは、「意味」の障壁を超える言葉が聞きたいのだ。ストア主義者は、世界ではじめて、《外》を《内》に入れて考えた人たちだった。彼らにとって、問題だったのは、アレクサンドロスが身近にした《外国語》だからだ。そこで唐突に思う。大東亜共栄圏、すばらしい言葉ではないか。この言葉は、かつてのように日本人に向けて、日本人を安心させるためではなく、外国人に対してこそ、語られるべき言葉だ。「意味」を貫通し、出来事へとたどりつく言葉が、必ずどこかにある。彼が明示した結論を借用するくらいしか能のないわたしたちのおかげで、依然として孤独をかこつミシェル・フーコーは、たしかにそう言っていたのだ。

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