京都には南京攻略に参戦した第十六師団があった。師団の兵士から郷里に宛てた手紙をみたことがある。そこには、《最近は民家に隠れている中国人を殺すのが慰め(大意)》と書かれていた。
しかし歴史学者ならば、この手紙に反対することは形式的にはわけもないことである。というよりも、カール・ポパーのいう科学の《反証可能性》に徹するかぎり、反証は可能でなければならないのだ。たとえばこうだ。この手紙はあくまで検閲を経ることが前提の、親族に宛てる私信でもない、郷里向けの手紙である。当時のナショナリスティックな社会に照らして、検閲官に気に入られるよう、さもなければ銃後を鼓舞すべく、誇張あるいは創作したのではないか、と。
《反証可能性》が科学の条件なら、それは裏を返せば、反証可能性を失った時点でこの手紙の科学性は失われるということである。
わたしが読んだ兵士の日記には、行軍がいかに悲惨なものであるか、ともに従軍した仲間が、南京の城壁の手前でつぎつぎに死んでいく様が、痛ましく描写されていた。無数の爆弾が屈強な兵士のうえに降り注ぎ、肉を穿ち、骨を砕く。炎の前に、命はたやすく、あまりにもあっけなく失われる。そんな姿をみつづけた彼にとって、中国人は、憎悪の対象でしかなかった。こうした感情は、戦争を経験したことのないわれわれの想像を絶している。ただひたすら覚えるのは、部外者としての、恐怖だけである。
もちろん、そのことが日本の兵士を免罪しない。相手の中国人にも同じことが起きていることが想像できるのだから。だがいずれにしても、彼らの感情についても想像を絶している。悲しみや怒りに似ているのかもしれないが、おそらくそうした通常の起伏を絶した、なにか震えるようなものとしかいえない。そして思うのは、これは証明問題ではない、ということだ。誤解を恐れずにいえば、文学的ななにかなのである。
たぶん、あの手紙に実際に触れた誰もが、《南京大虐殺はあった》と感じるはずだ。繰り返すが、この感情は、証明問題というより文学上の問題である。しかし、それを科学的実証の問題にしたとき、ナチスをあれほど批判したポパーの科学論が頭をもたげてくる。科学は、たえず反証可能性に晒されるという、あの命題である。
おそらく、誰しももっている文学的感情を否定せずにしかと握っている子供ならば、感じられるはずなのだ。戦地から送られたあの手紙がもっている重みを。それを科学的な証明問題にした瞬間に、あの重みは消え去ってしまう。検閲と情報の二重の網のうちに、あの重みがきれいさっぱり消し去られてしまう。さかしらな学者は、そうすることで、かえってあの手紙の重みを吹き飛ばしているのである。
歴史が学者の独占物になってから、すべては司法のする真偽の裁きに晒されることになった。感情もろとも文学が遠ざけられ、文学は虚構の位置を占めるほかなくなっていく。ここ数年起こっているのは、かかる文学の虐殺である。しかも皮肉なのは、歴史上の大虐殺を証明するために、ますます文学が虐殺されるという、あの悪循環に陥っていることである。
文学もまた、虚構ではなく真理を語り、真理の硬直を穿つ穴を開けるということが忘れ去られてしまった。反証可能性の地獄に宙吊りになった歴史の孤独。