台風が去って、盆の空気が肌にまとわりついてくる。盆の空気が好きだ。祭りのあとの夕暮れ、夏の空気がもう帰ろうとしているのはわかっている。だが、もうすこしだけ、たとえばあと一杯コーヒーを啜る時間くらいはいっしょに過ごしてもいい。この時期にのみ覚える格別な感覚。
戦争はもはや遠い昔である。ひとが記録からなにを語ろうと、あの戦争の記憶はずっと遠ざかりつづけている。その間遠さを日本の国の美化に用いようとする者たちはもとより、記録から事実を復元しようとする者たちも、戦争からは遠ざかっている。戦争は性の問題であるのか、それとも自殺攻撃の問題であるのか、新型兵器の問題であるのか、捕虜をめぐる問題であるのか、さもなければ愚かな軍人や官僚、政治家の暴走であるのか、エネルギーの問題であるのか、イデオロギーの問題であるのか、戦略や戦術の不備の問題であるのか、はたまた日本の歴史に根ざす唾棄すべき日本人性の産物なのか。それらすべてが戦争の一部分をなすかもしれないが、おそらくまだいい足りないすべてをあわせてみても、あの戦争それ自体にはほど遠い。語れば語るほど、戦争は遠ざかっていくかのようだ。
むずかしいことを承知で言えば、さまざまな現象を足し算するよりも、戦争という概念それ自体を思考することこそ、戦争を真の意味で批判する一番の方法であると、ぼくは思う。手から遠ざけるよりも、あえてその手に掴むことのほうが、よほど批判的だと思う。
戦場で生じた蛮行の数々は、戦争という悲劇の一部分ではあるかもしれない。だが、こうした蛮行があったから戦争が非難されるわけではない。数多の蛮行がたとえなかったとしても、やはり戦争は悲劇である。それが、おそらく日本国憲法の言いたかったことである。だからどれほど個々の問題において深刻に語ろうと、戦争それ自体の悲劇よりはずっと浅い。われわれがよかれと思いつくりあげた、血と汗の結晶である国家がひとびとにもたらした、小さな小さな、しかしとりかえしのつかない別離、そちらのほうが、ずっと戦争に近しく、また歴史にも近い。
戦争の記憶は、ずいぶんぼんやりしてきたと思う。