他人について知りたい、という欲望は、ごく自然なものだろう。ひとが、他人の何に興味を持つかはさまざまであろうが、やはり、気になるのがプロフィールではないか。そこには、名前や出身、血縁や地縁、生没年のみならず、場合によっては仕事遍歴だとか、思想遍歴だとか、さもなければ顔写真だとか指紋だとか遺伝情報であるとか、そのひとにまつわる履歴がコンパクトに記されている。他人についての情報を手っ取り早く手に入れることができる、大変便利なものである。
今日までうずたかく積み上げられた歴史(大きな歴史であろうと、小さな歴史であろうと)を作っているのは、たしかに、このプロフィールである。しかも、プロフィールは、一種の人間主義を形成する。とにかくプロフィールは、人間の“存在”を前提にしているからだ。
“人間”という言葉は、それが示す内容がきわめて空虚であるがゆえに、どのようなものでも含まれうる。にもかかわらず、“人間”という語は、その前に修飾されるべき“どのような”を、省略することができるという、きわめて特異な用語である。たとえば、今日、あらゆる権利が保障されるべきはずの“人間”の中から、犯罪者や精神異常者、あるいは外国人や天皇は排除されていることを想起すればいい。“人間”という語は、本当は“どのような”ということが前提されているのに、それを暗黙の了解のうちに省略してしまう。暗黙のうちに了解されている、というのは、いわば人間の条件であるが、それについて知るためには、プロフィールに書いてある項目に注目すればよい。名を持ち、仕事を持ち、出生地を持ち、親を持ち、電話番号を持ち、リアルなアドレスを持ち、ネットワークにアドレスを持ち、そして顔を持つ……。重要なことは、プロフィールが要請されるかぎり、《今ここ》が知りたがる項目によって、他人が規定されるということであり、逆ではないということである。
かくして、他人に対して、社会が知りたいと思うことだけが、他人についての情報となる。ここでいう“社会”とは、絶対的な主観である。“社会”と“私”の違いは、それが複数であるかそうでないかの違いだけで、“私”を積み重ねれば、もちろん、“社会”ができあがる。だから、“社会”を“私”に置き換えても、そう大差はない。わたしの知りたいことだけが、あなたについての情報のすべてである。
このことは、別に間違いではない。社会にとって他人であるような《私》がいるとして、《私》が社会に参加しようとするかぎり、名前や顔を用意するのは、《私》の生存にとってある程度までは大事なことだ。社会に排斥されることで死が待っているのだとしたら、やはり、名や顔をでっちあげることは、最優先事項だろう。だから、ひとは、履歴書を書くのだし、またプロフィールを他人に公開するのである。レヴィナスのように《顔》と言おうが、柄谷行人のように《固有名》と言おうが、どちらでもかまわないが、いずれにせよ、はじめに社会ありき、というかぎりにおいて、名や顔――プロフィールは、個人を特定する場合に必ず要請される、というのはやむをえないことである。もちろん、レヴィナスや柄谷の思考にうかがえるのは、古い人間主義の残滓だが、かといって、《私》が適当に名を変え、顔を変えているかぎり、《私》は永久に社会には認められないというのは、依然として事実である。
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だが、《顔》や《固有名》を賛美する思考には、なにか違和感がある。おそらく、すでに気づいていた読者もおられると思うが、プロフィールが要請している各項目に共通しているのは、それらが、変更しがたい傾向をもつ、ということである。《顔》や《固有名》が問題にされる場合、考慮されていないのは、変更可能性である。仮に、《顔》についての思考が、他者に見られることで、そのつど顔そのものが変更される場合を含んでいると見るとしても、そうであるなら、重要なのは、顔ではなくて、見られることによって絶えず顔が更新されることのはずである。固有名もそうである。関係性が固有名を作り出すとして、関係性の更新に応じて固有名が変わるとしたら、大事なのは固有名ではなくて、関係性が更新されることのはずである。
逆に言うと、顔や固有名の思考は、《今ここ》の“かけがえなさ”が前提にされている。というのも、それまでの名や顔の変化をさしおいて、顔や固有名そのものを問題にできるのは、《今ここ》が重大視されているからである。だが、今日、《今ここ》の“かけがえのなさ”において問題なのは、《今ここ》が絶えず過ぎ去っていくことの方である。つまり、《今ここ》は、絶えず更新されているのであり、そうであるがゆえに、過ぎ去る《今ここ》が、“かけがえのなさ”を得ているのである。したがって、《今ここ》が絶えず更新されているという事実に着目するなら、顔や固有名についての思考は足場を失うし、ついには意味をなさなくなるだろう(1)。
わたしたちは、プロフィールについてのあらゆる思考に、穴が開いていることを薄々知っている。名前や顔を、適当にでっちあげることは不可能ではないからだ。だから、逆に、良識的なひとびとは、名を変えることに、一種のタブーを感じている。名は、存在と結びつき、またそうであるがゆえに変更不可能となっているのである。このような社会において、ひとが、名を守ろうとすることは、必然である。名を好きなように利用されることは、存在の冒涜を意味するからだ。かくして、《匿名》の権利なるものが、必然的に生まれることになる。だが、ここまでの考察で明らかなように、《匿名》の権利は、同時に、潜在的には、名を変更する権利を社会に預けてしまうことによって可能になっていることを忘れてはならない。逆に言えば、名を変更することが容易である社会においては、《匿名》の権利は意味をなさないし、また逆に《匿名》性にこだわることで、社会を見誤ることになる。《匿名》性にこだわるかぎり、国家は、ますます、個人を特定するための巧妙きわまる技術を開発し続けることになるだろうし、だから国家に反対する者たちは、よけいに《匿名》性のよさを謳うのだ。かくして、中心を欠いた権力が同心円状に資本蓄積され、新しい国家はますます膨れ上がっていく(2)。
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もう一度考えてみよう。他人を知るために、わたしたちに何ができるのかを。
わかりやすいので、葛飾北斎の例をあげよう。わたしたちは、歴史上の人物として、“富岳三十六景”を描いた江戸時代の画家に、“葛飾北斎”という名を与えている。彼は、何度も名(号)を変えたことで知られている。実際、“富岳三十六景”を描いたときの号は「為一」であった。だが、彼の絵画が売れ、社会に認められたときの号が“葛飾北斎”であったために、彼の名は、“葛飾北斎”で通ることになった。彼は以後も号を変え続けたが、“旧葛飾北斎”と銘に付け加えなければ絵が売れないという事態に陥っている。
この場合、重要なのは、名前ではなくて、《作品》である。作品が社会に認められるということによって、固有名が決定されているからである。すなわち、《名》がまず在るのではない。《作品》が《名》を決定しているのである。こういう思考は、社会が《名》を決定していると考えるよりはずいぶんましである。なぜなら、《作品》には、自己の働きかける契機が存在しているからである。というより、《作品》は、社会と個人との不可分の一対という、近代的思考とは無縁の、自己そのものを思考するやり方である。
ものを作るということ、それは、社会に働きかけることである。しかも、そのことによって、社会そのものを変えることである。そのことによってはじめて、《名》が存在するのである。たとえば、織田信長の家臣であった“木下藤吉郎”でも、“羽柴秀吉”でもなく、“豊臣秀吉”によって、ある人物Xを特定するのは、ほかならぬ“豊臣秀吉”が日本全国を統一し、戦国時代を終わらせたということが、今日、他の事蹟よりも重要に思えるからである。カール・マルクスがほかならぬ“カール・マルクス”であるのは、彼が、『資本論』という作品を残したからである。声にせよ、文字にせよ、あるいは絵画にせよ、子供にせよ、《作品》だけが、時間も空間も超越できるのであり、歴史を超えることができる。これは当然の事実である。
なにかを作ることによって、《名》は、はじめて存在させられる。たとえば、ひとが他人の《名》を呼ぶとき、わたしたちは、《名》がはじめから存在していたかのように考えてしまう。だが、本当は、呼びかけによってはじめて《名》が存在するのであり、また、呼びかけに応じて他人が振り返ったとき、はじめて、《名》は内容をもつのである。その意味では、《名前》という語についている“前”には、含蓄がある。おそらく、《名》がもっているそういう罠についての注意書きなのだ。重要なことは、《名》よりも先に《呼びかけ》という言表が存在していることだ。言うなれば、《呼びかけ》は、社会に働きかけることであり、したがって、それはすでに《作品》の種子である。ミシェル・フーコーが、なによりも言表(エノンセ)を重視するのは、それが、《名》よりも前に存在する、《呼びかけ》だからである。
なにかを作るという労働が、資本によって回収されてしまうのは、労働が、つねに資本家の思い描くイデアに沿った形でしか物を作らないからであり、あるいは、労働が、資本に従属される形でしか存在できないような社会ができあがっているからである。こうした従属を可能にしているのは貨幣だが、この貨幣は、同時に名を意味する。労働が貨幣に結実することによってはじめて労働であるのと同じように、名におのれを一致させることによって、はじめて近代の人間が可能になる。
つまり、真に《作品》を作るために必要なことは、それまでの《名》についての思考をすべて捨て去ることである。それなくして《作品》は存在しえず、あるいは、すべて資本に回収される予定調和にしかならない。名前を変えることがタブーであるとすれば、それこそが突破口だ。名前を変える権利について、思い起こそう。誰をも傷つけることなくできる抵抗があるとすれば、それこそが真の抵抗の名にふさわしい。
はじめに《作品》ありき。名前のことは忘れて、ここからはじめよう。他人を知ることは、まずその《作品》を鑑賞すること、ここからはじまる。デリダのアルシ・エクリチュールが、フーコーのエノンセが、そしてなによりマルクスの『資本論』が一掃しようとしたはずの《名》についての思考を、なぜ、その弟子たちは復活させようとするのだろうか?
【註】
- (1) たとえば柄谷行人は、坂本龍一からの“救済”についてのインタヴューに答えて、救済とは、世界史を書くこと、すべての固有名を記録することだと言っている(公開は1997年、坂本龍一のアルバム『ディスコード』güt、1997年に収録)。だが、もちろん、そんなことは単純に不可能である。だから、ある意味で、救済などありえないことを逆説的に言っていると考えてもよいのだが、一方で、上述の固有名についての思考に囚われているがゆえに口にしてしまった、全体主義的な誤謬だと考える余地も残されている。ちなみに、このような思考においては、顔よりは名のほうがはるかに厳密性があるし、おそらく、この種の他者論において、もっとも優れたものが、柄谷行人のものである。というのも、顔は、依然として素朴な身体的発想に依存しすぎているからである。したがって、柄谷がレヴィナスを批判するのはもっともであるが、理論的に細緻である分、レヴィナスにある曖昧な可能性はなくなっている。固有名を固有なものたらしめるのは、関係性(社会)の先行だが、関係性と固有名のあいだには、後述するが、《作品》の介在する余地があるはずである。その意味では、柄谷の他者論の可能性は、「固有名」についての思考ではなく、売る立場と買う立場、あるいは教える立場と学ぶ立場がもっている、一種の時間論にある。
- (2) インターネットの世界が、《匿名》の世界であると考えられている限り、可能性がないばかりか、むしろ有害である。インターネットの世界とは、むしろ、《名》を変更することが常態であるような世界であると考えねばならない。