君の認識の外に学問は

philosophy
2015.10.04

秋のやわらかな日差しがカーテン越しに。鳥の歌声が右に左に——。

autumn

学問において、なにかを認識する、ということは、とても大切なことである。それどころか、避けて通れないものだ。

しかし、認識する、という態度それ自体が、対象を変化させてしまうとしたら、学問の志す真実の名に照らして、無害にみえるその態度を改めなければならなくなる。それで認識に代えて、介入する、それも切断するために介入する、という態度を取ることがある。そのときには、かつての麗しき協同的な絆は断たれ、学問は外交に、それも戦闘も辞さない交渉ごとに、だんだんと似てくる。君はわたしに、君の所有しているすべてを貢ぐべきだ、さもなければ……。

おそらく、学問は神聖なものである。しかし、先人に満腔の敬意を表すなら、それ以上に、戦闘的なものである。学問がなにかの道具になることがある。しかし、学問はどちらかといえば、手段というよりは目的であり、だからある意味では、道具というよりは武具である。

ひとは武具を、手段という意味ではほとんど不必要に、そればかりか邪魔なほどに、美しく飾ることがある。なぜなら、武具それ自体がすでに、開戦の合図だから。同じように、学問で戦う以上に、学問が戦いである。学問は政治の道具になることがある。しかし、学問上の戦いが、政治を変えることもある。

たぶん、真実もまた、本来は、戦闘的なものである。とりわけ人文学的な真実は、いつも戦闘的である。なぜなら、有用性を測る物差しが、あらかじめ存在しないからである。こんなものがあったらなあ、というひとの願いを叶える科学とは、この点でおおいに異なる。

有用性を測るとは、前もって価値を測ることであり、いいかえれば認識する、ということである。しかし、人文学には物差しがない。つまり人文学は、どうしても認識論では満足できず、そのかわりに戦いを据える。

したがって、人文学者の戦いに拳はいらない。言葉で戦える。それどころか、拳で戦っているときでさえ、ほんとうは、ひとは言葉で戦っている。学問は戦争の道具というよりは、学問が戦争なのである。

平和とは、きっとそんな風に訪れるものである。

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