多くの学者たちの努力にもかかわらず、学問の世界はどこもかしこも衰弱するばかりなのだが、この速度に追いついて、また上昇するのも、考えるだにたいへんなことである。若者の政治に対する無関心は小石を投げてできる波紋よりもはやく広がっている。
しかし、政治とは何だろうか。自分より大きなものに惹かれ、憑かれるとき、彼らの頬に、政治の影が差す。自分はそれらの前ではちっぽけな存在にすぎず、程度の差はあれ(つまり時々それを意識するだけなのか、それとも身体ごとそうなのか)、そのために己を投げ打っても、夢の実現に突き進もうとする。
問題は、その「自分より大きなもの」が、いかにも形骸化しているため、政治といえば、それらを指す言葉でしかなくなっていることである。つまり、「国家」か「社会」か「民衆」か、さもなければ「自然」か「宇宙」か。自分より大きなものといっても、せいぜいひとはそれくらいしか思いつかない。
あとは、「神」か。そういうことになるのなら、また一からやり直しである。要するに、政治になど興味をもたない方がよかった。それで教師はディレンマに陥る。学問の緊張のためには、どうしても現実との接点、要するに生の人生が賭けられなければならない。だがそのことが政治に横滑りしていくわけだ。
せっかちに、「自分より大きなもの」を標的にして、すべてを投げ打つ前に、そもそも、その比較はどこから出てきたのかと考えてみよう。そして自分をちっぽけに見据えて身体を投げ捨てる前に、そもなぜ君は自分を以前の自分よりも大きくしようしないのかと、問いかけてみたくなる。
つまり君は小さい。だから大きなもの、君が意識のなかで育んでいる理念、たとえば国家、社会、人間、自然、神、そうしたものよりも君ははるかに、しかも追いつけないほどに小さいわけだ。だから自己犠牲に奔るというわけだが、さてその理念は、君が生み出したのではなかったか。
君は君が生み出した理念よりも小さく、だから君を君の外側に、他者のため投げ捨ててかまわないというが、はたしてそれは「君」だったろうか。「私」ではなかったろうか。つまり君はほんとうは自分を追いかけていたのではないか。だから他人は、理念に奔る君を、自己中心的に眺めるのではないだろうか。
要するに、自分より大きなもの、それもまた自分なのである。不思議なことに、ひとはそうして、成長することができるのである。だから教師は、君が君自身の可能性に気づくことだけを求めているのであって、君の外部にあるところの「政治」を求めているわけではなかった。
しかしそうはいっても、教師にとって、政治に無関心なひとたちは、最大のライバルである、ということは、まったく矛盾しない。というのも、彼らはそも自分に興味をもっていないからだ。この、ゴマンといる、自分に無関心なひとびとの集団(わたしはこれこそ民衆であるという)こそが、歴史上、最大の政治勢力だからである。君の成長を妨げている、無関心の支配。
君は、最初から君というわけでなく、君は関心の束であって、無関心は、君の衰弱であり、国家や社会といった外部の理念にひきかえおのれのちっぽけさを自覚する政治家と、たいしてかわりはしない。
要するに、わたしが言いたいことは、君は、君自身にもっと関心をもて、君は自分で思っているよりも、まだ美しくも強くもなれる、ということである。