わたしの専攻はニーチェとおなじく古代ギリシア・ローマ史であるわけだが、「史」という言葉が定義上どのような範囲をもつにせよ、やることは決まっている。文献をひたすら読むことである。たしかに、“東洋”の端に位置するこの国にあって、また、有史以来、まっすぐに伸びた時間軸上の尖端にあって、古代ギリシア・ローマは、もっとも遠い世界のひとつである。たしかに、古代ギリシア・ローマは遠い。しかし、あらゆる文献学がそうであるように、わたしのやることは、結局は目の前の文献をひたすら読むことなのである。
さて、わたしは、ちょっとした方向転換を行おうと思っている。日本の近代史をやろうと考えているのだ。このことは、たしかに、遠い世界よりも、近くの世界をみるという、ロマン主義からリアリズムへの(?)一種の転向めいた行動になるわけだが、上で述べたことを勘案すれば、じつは、それほどたいした違いはない。これまでと同じように、文献をひたすら読みつづけるだけである。ラテン語を読むように、日本語を読むのである。
だが、このことは、わたしが古代ギリシア・ローマの研究をやめてしまうということを意味しない。むしろ、日本近代史の研究は、それを掘り下げるために必要なプロセスなのだと思っている。また、逆にいえば、古代ギリシア・ローマの研究は、日本近代史を掘り下げるために必要なプロセスなのである。いずれにせよ、現在から過去へ、過去から現在へ。われわれはこのあいだを行き来するほかない。
われわれは、一般に、文献というマテリアルを、シンボリックなものとして読み、想像の翼を羽ばたかせ、哲学的な思弁の世界を繰り広げる。いつでも、われわれは、フィロロジー(文献学)とフィロソフィー(哲学)のあいだを生きている。文献だけでひとは生きていないし、哲学だけでひとは生きていない。ひとは両者を必要としている。未来への過剰な反復。古代ローマ帝国のストア哲学者、セネカが気づいていたように、過去と現在のあいだを行き来するとは、未来への過剰な反復なのである。未来(他者=物自体)を生きるために、ひとはそうするのだ。文献学者ニーチェは、哲学を禁じられ、追い出されるように学会を出奔した。文献学者にとって、哲学を禁じられることは未来を禁じられるに等しいことだが、それを思えば、ニーチェを襲った不幸は察するに余りある。それに比べれば、わたしはなんと恵まれていることか。無論、現代の硬直した社会システムと、わたしの行為は相反するが、それでも、現代は、フーコーのような存在をもった。わたしは、そのことを最大限に評価したい。